■夫ある身の醜聞として世間に責められても

環は、こと音楽について意気投合すると、自然に身体が燃え、その行動が大胆になるようなところがあったようだ。勿論自身は何ら他意のない極く自然の振舞いであったと思われる。

夫ある身の醜聞として世間は生涯にわたり環をこの面から責めるのであるが、これに対して彼女は弁解らしい弁解はしなかった。その一生を振り返り、その歩みを見るにつけ、まことにスケールの大きい、ナイーブな女性であったように思う。

石川氏の綴るところは、楠正一が環と親しくなり、その失意によって身を隠してしまったということである。

楠正一は一高二年在籍のとき、彼のことを二年級八年生と呼ぶ同級生がいた。楠は一年を二回、二年を二回三年を二回やったが、三年の卒業試験を二回続けて落第したので、終に卒業できないばかりか校則上退学を命ぜられる。

すると、彼は再び入学試験を受けて一年から入り直し一年と二年をやっている。二年生とはいえ数えてみると丁度入学以来八年目である。現代の学生気質には見られない微笑ましいエピソードではないか。

田辺尚雄は、楠正一はクラス中最も愉快な人物だったと述べ、もし彼が音楽学校に入っていたら、瀧廉太郎の後継者になったであろうと惜しんでいる。(※3)

明治三十五、六年といえば、新思潮勃興期で自我に目覚めた若者たちにとって激動の時期でもあった。学生歌が流行し、藤村操(一八八六〜一九〇三)は厳頭之感を残して前途ある十八歳の生命を自ら断っている。

楠の突然の失踪は、失恋説、厩世説と話題をよんだが、その後の彼の消息を知る者はいなかったのである。

(※1)主人公菊池と敏子の場面「何秒若くは何世紀過ぎたか知らないが……」の表現九の巻(九)

(※2)中央公論『歴史と人物』第二巻第十号 昭和四十七年十月

(※3)田辺尚雄『明治音楽物語』青蛙房 昭和四十年刊

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『新版 考証 三浦環』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。