■校歌を発表した記念式典で、三浦環から花束を

楠の勤務先での会話に発して石川氏はその晩、彼の家を訪ねる。昭和十年(一九三五)五月であった。札幌の北の郊外に一面に広がる玉葱畑に面した五、六棟の中の一軒に楠は住んでいた。夫人は留守であった。

六畳の部屋にはピアノが一台置かれ周囲との調和を欠いている。彼は乞われるままにピアノの下の木箱から一冊の古ノートと色褪せた写真を取り出した。ノートには一高在学当時の事柄が断片的に記されその中に柴田環の文字がいくつか目にとまる。

石川氏はこのノートと写真を借り出したが、返却する機会もないまま、戦時中に紛失してしまったという。

「中央公論」の手記の部分は当時のメモによったと言うが、ここに楠正一の手記の部分を引用しておく。

柴田環の印象を「華麗にして清楚なること朝露に輝ける薔薇の如し」と記している。

「壇上にありしとき、忽然としてわが前に一団の女性現われぬ。その一人、前列にありて花を捧げしは、まさしく柴田環嬢なり」と明治三十五年三月一日の第一高等学校、第十二回記念祭の「あゝ玉杯に花うけて」発表の折、環から花束を受けた感激が記してある。

一高ではこの年初めて校内に女子の入るのを許したのであった。(※37)

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『新版 考証 三浦環』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。