近代の日本において新しい女性像を作り上げた「蝶々夫人」のプリマドンナ三浦環。最近では朝ドラ『エール』にも登場し話題となりました。本記事では、オペラ歌手として日本で初めて国際的な名声を得た彼女の華々しくも凛とした生涯を、音楽専門家が解説していきます。

生涯と事蹟

■1人の記者が、北海道で農林技手をしている楠正一に気が付いた

楠正一(一八八〇〜一九四五)といえば、旧制一高の寮歌「あゝ玉杯に花うけて」の作曲者として記憶される。彼がどのような人生を歩んだか、なぜ突然失踪したのか、その原因が柴田環にあるとする説もあるから一考の必要がある。

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この説は北海道タイムス編集局長の石川謙一郎が「中央公論」に発表した「あゝ玉杯……の栄光を捨てて─作曲者楠正一と三浦環─」により知られる。(※36)

石川氏が楠正一の名前を記憶していたのは氏の伯母が一高生であった楠と神田のアウグスト・ユンケル(一八七〇〜一九四四)の音楽塾で顔を合わせ柴田環も一緒だったことを聞いていたからだと言う。

札幌の記者時代、朝日新聞の学芸欄で大島正徳(一八八○〜一九四七)の「台湾紀行」の中に楠正一に対する追悼の想いを見出し、仕事柄訪ねたことのある石狩支庁の農林技手楠正一のことを思い出したのであった。伯母から聞いた一高生楠正一のイメージと農林技手楠正一の面影とはあまりにも像がかけ離れていた。

石川氏は楠がかの「あゝ玉杯……」の作曲者と同一人物であることを確かめ、楠失踪の直接の原因となった動機を是非聞き出したいものと考える。失踪の動機を多感な青年時代の女性関係と見た氏は、伯母の話に出た柴田環との関係について触れていく。

「柴田環さんのことも確かにありました。ですが、そのことはあまり話したくないのです。でも、もう話したところで三浦さんにも迷惑がかかることもないでしょうから……」