与論島での帝王切開

激務の与論島の生活にもやっと慣れた頃、近くの茶花の浜辺で、若者たちが三味線やギターを手に島唄に興じているからと誘われました。

島には映画館をはじめ、娯楽施設もなく、二、三軒の飲み屋があるだけでしたから、唯一の楽しみは昼間の仕事を終え、月明かりの下で三々五々、男女が集い民謡を歌い語り合うことでした。

仲間に入れてもらって楽しんでいる矢先、診療所からの呼び出しがありました。島では日常茶飯事でした。

急遽(きゅうきょ)診療所に戻ると、隣部落の産婆さんからの連絡で、難産の妊婦さんの処置に大変困っており、これから診療所に急ぎ運びたいとのことでした。間もなく妊婦さんが戸板に乗せられ、若い男衆に担ぎ込まれてきました。

すぐに診察を始めました。十数時間の陣痛で、妊婦さんはぐったりと疲れ果てており、胎児の心音は微弱で、早急に帝王切開が必要な状態でした。島の電気は午後一〇時で停電のため、数個の懐中電灯を急いで集め、局所麻酔による緊急手術に踏み切りました。

三〇分後に無事女児を取り上げ、母子ともに経過良好で安堵しました。鹿児島県の牧角病院に派遣され、産婦人科の院長先生が実施される手術助手をした経験を活かすことができたのです。

医局からさまざまな病院に派遣されるということは、自身の医師としての幅を広げることに役立つという典型例でもありました。無事に生まれてきた女児を目の当たりにして、スタッフ一同喜び合ったものでした。

翌朝、手術の経緯を説明しようと父親を呼ぶと、祖父が来院され、「実は、この娘の父親は行方不明で、私生児なのです」とのこと。予想だにしていなかったことにしばし唖然(あぜん)としていると、さらに畳みかけるように「先生は命の恩人です。ぜひ、この子の将来のために〝命名〟をお願いします」と依頼されました。

無事に出産を済ませ、やっと落ち着いた産婦と後日相談の上、母親の名前〝明美〟から一字をもらい、将来和やかに、母子で幸せな生活が続くことを祈念して〝和美〟ちゃんと名付けました。母子は、一週間後に退院されました。

その後、私も久留米に戻り、暫時(ざんじ)音信不通で気がかりでしたが、数年後、私の勤務先(那覇)の病院にこの母子が一緒に訪れてくださいました。和美ちゃんは小学校低学年になっていました。

「こんなに元気で大きくなりました」と、お母さんがうれしそうにおっしゃり、私も和美ちゃんとお母さんとの再会に大変うれしく思うと同時に、医者冥利(みょうり)に尽きると感慨もひとしおでした。その後、和美ちゃんは成人し、鹿児島に嫁いでいる旨の知らせがありました。

牧角病院に派遣されていなければ、産婦人科のことは何も知らず、この子を取り上げることはできなかったでしょう。そう思うとともに、母子の幸せを常に願い、いつの日か必ずや再会できることを願っています。

与論島から久留米へ大学からの他の出向先では、まず味わうことができない貴重ないくつかの体験を終え、懐かしい与論島の皆さんとのお別れの日がやってきました。

私が、去る第二次世界大戦の結果、今はまだ日本国から隔絶され自由に往来できない隣の島沖縄の出身で、片言の方言を交わすことができる特異な存在であったことで、一層、町民の皆さんと、診療の傍ら和気藹々(わきあいあい)と過ごすことができました。

明日はお別れという日の夕刻から、役所の皆さん、診療所のスタッフの皆さん、町の青年男女が一堂に会して、別れの宴を催してくださいました。私の大好きな与論の食べ物がふんだんに並び、島の人たち一人ひとりが心から別れを惜しんでくださいました。

その中の一人が三線(さんしん)をつま弾きながら、かつて一世を風靡(ふうび)した田端義夫の『十九の春』の元歌である『与論小唄』を朗々と歌い始めました。

〝木の葉みたいなこの与論、何の楽しみないところ、好きなあなたが居ればこそ、いやな与論も好きになる……〟と即興で歌ってくださり、それに合わせて、やがて大合唱となり、感極まったものです。

〝ひたすら病める人びとのために〟

私は、この与論島でも、この思いを深く胸に刻み込みました。

 
※本記事は、2019年12月刊行の書籍『 ひたすら病める人びとのために 上巻』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。