いつまでも二人で歩いた、あの夏の日々の記憶。

その年の七月を、香奈はいつまでも懐かしく思い出したものだった。

それは、人生にそう何度も訪れることのない、稀有な時間の記憶だった。一つの影法師が人生の入り口にあった香奈の心の扉をこつこつとたたき、そして静かに歩み去っていった。一人の人間の輝きをすべて詰め込んで通り過ぎた、短い夏だった。

数十年が過ぎた今でも、香奈はなんでも思いだすことができる。それらは遠い心の引き出しの中に、シルエットのようにしまわれている。

小林からの返事を郵便受けの中に発見したときの心臓の動悸、今度一度お会いできますか? と書かれた文面を読んで、喜びというより脱力感を覚えたこと、そして、小林と二人で歩いた東京都内の長い道の情景。

小林は散歩の好きな男だった。おまけに、カメラだけ抱えて一人で散歩するのが好きだった。だが、その夏の短い日々だけは、カメラの代わりに、香奈と一緒に歩いてくれた。いつまでも二人で歩いてくれた。

「早すぎるわ、もう少しゆっくり歩いて」

いつのことだったのだろう。外苑から麻布の方に抜ける路を二人は歩いていた。せっかくの化粧が汗で落ちたが、香奈は気にならなかった。小林も気にしないたちなのだ。

「早い……ですか」

笑いながら小林は立ち止まった。小林はいつでもこんな調子だ。大柄な小林の頭の上に力こぶのような夏の雲がぽっかりと浮いているのを香奈は見た。不思議な人だと香奈は思う。小林といると気持ちが安らぐのだ。

いつも抱えている仕事や用事や勉強からすべて解放されたら、こんな気分になれるのかもしれない。

心の中を一度空(から)にしてから、新鮮な空気だけ入れてみたら、こんな感じなのだろうか。

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『百年後の武蔵野』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。