■留学先のドイツで瀧廉太郎は環について熱く語った

その後、「婦人公論」が新連載として「お蝶夫人」自叙伝を「偽りなき過去」と副題を添え環の署名で三回にわたり特集した中でも触れているが全体にこの伝記は、環の語る口述の味が正確に生かされていないのが惜しい。

瀧廉太郎は音楽学校男子教員で最初の海外留学生であったから、新時代への門出として音楽界の彼に対する期待は大きかった。

明治三十四年(一九〇一)四月六日、午前九時ドイツ汽船ケーニヒアルベルト号での横浜港出帆が確定し、三月三十一日(日)送別記念音楽会が音楽学校奏楽堂で催された。(※1)

この会のトップを飾って環は、同級生の鈴木ヨシ、三浦トメ(後に村岡)とモーツアルトの「トルコ行進曲」を連弾している。先輩、学友、一般聴衆の視線の中で環にとっては初めての演奏会経験であった。

瀧廉太郎より一足先にドイツに留学していた幸田こう(後に安藤)はベルリンに彼を迎えた時の様子を回想して次のように記している。(※2)

べルリンで瀧さんが来ると聞いたときはとても嬉しく思ひました。ライプチヒに落ちつく前か、あるひはその途中か、一度私のパンジョンをたづねてくれました。私としては出きうる限りのごちそうでしたが、いたって粗末な食事を共にしながら、柴田たまきさんの歌の上手なことや自転車で学校に通った話など、なつかしい上野のことなどをむさぼるように聞きました。

環と面識のない幸田こうに対し環の上野での評判を話題にし、彼女が四十五年を経た後にそれを記憶し回想しているところをみると、瀧の環への思い入れも深かったのではないかとおもわれるが、求婚の事実は環自身が、そう語る以外知る人はいない。

※1 東京音楽学校学友会誌第九号 明治三十四年十二月

※2 小長久子『瀧廉太郎』吉川弘文館〈人物叢書一五一〉 昭和四十三年刊

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『新版 考証 三浦環』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。