4 与論島での日々与論島へ

与論島への派遣に同意した私は、まず鹿児島県まで鉄道で行きました。鹿児島港から与論島へと行くわけですが、船便が三日に一便しかないことにまず驚かされました。

ようやく乗り込んだものの、与論島までは鹿児島港から十数時間の船旅です。今では考えられないようなことですが、当時の移動手段はそのようなものでした。

そうこうして、やっと与論島茶花(ちゃばな)港に着いたものの、今度は船が接岸できません。大きな船が接岸できるほどの桟橋がないわけです。連絡船は沖合で停泊し、そこから艀(はしけ)に乗り移って、桟橋まで行って上陸するというような時代です。艀の往来が繰り返されていました。

港には町役場の方々が出迎えてくださり、診療所隣の宿舎に入りました。船内の蒸熱(いきれ)で汗ばんだ体を清めようと、近くの銭湯を訪ねることにしました。そこには数人の先客があり、挨拶を交わしました。

日頃見知らぬ顔の男が入ってきたと、訝(いぶか)しそうな表情の若者たちの中をかき分けて、一人、腰が曲がり痩せたお爺さんがゆっくりと近づいてこられ、「先生、背中を流しましょう」と声をかけられてびっくりしました。

〝向こう三軒何する人ぞ〟と、都会では近隣の方々とのコミュニケーションさえうまくいかない世相になりつつあった当時ですが、与論島では私の赴任前からすでに「今度は隣の沖縄出身の先生が来る」と、多くの方々に知れ渡っていたのでした。

そのお爺さんは、「町民は善きにつけ悪(あ)しきにつけ、皆兄弟家族のようなものですよ」と語ってくださいました。

「今日から私も家族の一員にしてください」と言って、逆にそのお爺さんの背中を流してあげました。素晴らしい島でのスタートでした。

翌日、診療所での諸々(もろもろ)の手続きを済ませて職員紹介の後、いよいよ午前八時から診療が始まりました。

すでに待合室には多くの患者さんが待っておられました。その頃の与論島の町民は七二〇〇人でしたが、島にある医療機関は当所のみで、しかも、たった一人の医師でした。我が身一つで頭の先から爪の先まで、すべての疾病を診断・治療し、予防医療までも施さなくてはなりません。責任重大な毎日が始まりました。

朝八時の診療開始から夕刻五時までに、一日約二〇〇人の外来診療をします。さらに二十数人の病棟入院患者の管理を終えてから、今度は夕刻から手術が待っています。

その上、夜間の往診に出かけ五、六軒回ってきますと、帰るのは夜の一一時、一二時です。全く息つく暇のない日々の連続でした。風邪やインフルエンザの流行時は、一晩に十数軒も回ります。

疲れ果てて帰院の頃は、東の空がほんのりと明るんでくる頃でした。また、全島至る所に舗装道路はなく、十数年も乗り回している往診用の車がありましたが、窓ガラスは割れ、車体の床底は穴があき、水溜まりのでこぼこ道では泥水が噴き上げられ、横殴りの雨の日は車内で傘を差しながらの往診でした。

東京から久留米に行ったときも、えらい田舎に来たものだなあと思いましたが、それどころの比ではありませんでした。とてもとても常識では律することのできない、文明国日本の一面でした。しかし、T運転手も同乗のK看護婦も、「これぞ島の人々の業ですよ」と、笑顔で応えてくれました。

診療所には、一応診察用具はちゃんとそろっていました。ただ、麻酔器がないことには閉口しました。ですから、麻酔をするにしても手術をするにしても、局所麻酔しかできませんでした。手術も同様です。そういう状況での診察開始でした。

ですが、食事は島の皆さんが作ってくださって、おいしかった。あの味は今でも忘れることはできません。

重大交通事故が発生ある朝のこと、信号機が一つもないけれども、車の数も少ないこの島で、五十代の男性がトラックにひかれるという初めての大きな交通事故が発生し、被害者の男性が診療所に運び込まれてきました。

全身打撲で意識は朦朧(もうろう)としておりました。神経症状から、明らかに頭蓋(ずがい)内の出血が疑われました。しかしながら、残念なことに精密検査ができる機器がなく、近隣の沖おきの永良部(えらぶしま)島に問い合わせましたが、そちらでも緊急な対応は不可能との返信が来ました。

患者の容体は刻一刻と悪化の一途をたどり、このまま放っておけば死を待つのみという状態でした。藁(わら)をも掴つかむ思いで、先輩が勤めていた『沖縄赤十字病院』に問い合わせたところ、肝心要(かなめ)の脳外科医がいないということでした。

「それでは私が執刀します」と伝えると、「それなら麻酔医を待機させておきましょう」との返事をいただきました。患者の搬送手段として、琉球政府に連絡しますと、沖縄駐留の米軍航空隊に回されました。

緊急状況を説明し、搬送をお願いしたところ、「米軍のヘリコプターは緊急時はどこにでも飛んでいきます。洋上であろうと、島であろうと、どんどん飛んでいきます」ということで、「ああ、よかった」と思って米軍のヘリコプターを頼みましたら、「いろいろ手続きがある」と言われました。

沖縄県内ならどこにでもすぐに行けるけれど、与論島は管轄外だというのです。その頃、沖縄は米軍の管轄下にあり、与論島は日本の管轄内にあったのです。

いろいろと手続きの上、ようやく許可が下りて、間もなく大型ヘリコプターが飛来して、茶花小学校に着陸しました。

事故発生から十数時間が経過しており、患者さんの意識レベルもかなり落ちている状況でしたが、患者とともにドクターとチーフナースも同乗するように指示され、那覇航空基地へ向かいました。

赤十字病院に搬送され、手術の準備をと思いましたが、意識レベルが落ち、血圧も低下しており、「もう麻酔をかけられる状況じゃありません」と言われました。結局、手術前に心肺停止状態に陥り、間もなく息を引き取られました。

もう、夜の九時を過ぎていました。致し方ないこととはいえ、患者さんを救えなかったという思いから脱力感がありましたが、ご遺体をご家族のもとにお返ししなくてはと思い、米軍に交渉して、ヘリで与論島まで送ってくれるように頼みますと、「緊急時はどこへでも飛ぶが、それ以外はだめです」との返答でした。

与論島から沖縄まで飛んでくるときには、私とナースの二人には、米軍より、パスポートなしの不法入国者ということで、四八時間に限り滞在を許可するという特別の計らいを受けていました。

しかし、さっさと戻らないと期限切れになってしまいます。

米軍に断られて今度は琉球警察に掛け合いますと、陸路で北部運天港まで搬送し、琉球警察の警備艇で日本と琉球の洋上の境界二八度線上にて、鹿児島警察の警備船に遺体を引き渡すならという了解のもとで出航できました。

洋上で琉球警察の責任者と交渉の上、警備艇を与論島の茶花港まで運航する許可が得られました。

港に着いたときには、島を出てから翌日の夜になっていましたが、多くの町民が出迎えてくださっていました。その中、船から搬出されたご遺体を親族にお渡しすることができました。できれば、一命を取り留め、元気になって戻ることができればさらに良かったのですが、ご遺体で戻すしかなかったことを無念に思いました。

医療機器がそろっていれば救えるかもしれない命を、何ともしてあげられなかった。

この思いは、後年世界のさまざまな医療の発展途上国を訪問し、医療機器の不十分さを見るたびに、支援の手を惜しまなかった私の原点になっています。

長い二日間の出来事でしたが、ちょうど折しも『アサヒグラフ』の記者が与論島に来ておられて、この事故の一部始終を取材して全国に報道されました。今も手元にそれが残っておりますが、そこに掲載されている写真を見るたびに、忘れることのできない大きな思い出の一つになっています。

与論島の診療所にて
※本記事は、2019年12月刊行の書籍『 ひたすら病める人びとのために 上巻』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。