蕎麦湯に浸かった蕎麦が、丼に入って出てきた。
鰹節や海苔と葱がのり、醤油だれをかけて、かけ蕎麦風に食べる。初めて食べたが、大変にうまい。

「これを食べると、わざわざ出汁を取って、蕎麦汁(そばつゆ)を作るのがバカらしくなるな」
玲子の言葉に、主人が微笑みながら、うなずいた。
「私の生まれ故郷の食べ方です。手を抜くのが、上手な者が多いところです」

食後の茶を飲むうち、玲子も主人に質問したくなった。
「主(あるじ)、カウンターの隅に置いてある、ススキの入れ物は何だ?」

「あれは、江戸時代中頃の黒薩摩焼の大甕(おおがめ)です」

「カメ?」
玲子は、焼き物に目をやった。どう見ても違う。

「何を戯(たわ)けたことを。あれは、亀じゃないだろう? 龍だろっ!」

何か、喉にでも詰まったのか、トオルがプッと吹き出した。タミ子が、頭を小突いている。

「失礼いたしました。あれは、龍です」
「そうだろ、店主が間違えちゃいかん。あれは、龍だ。亀では、ない」

葉子も、にこにこ笑い出した。女将もくすくす笑っている。面白いことを言ったわけでもないのに、座が寛いだ。

玲子は、杯を空けるたびに、どこか不思議な心地良さを、感じ始めていた。

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『山田錦の身代金』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。