そして一息ついた。夕食はすでにすませていた。京都に戻って初めて、そして久しぶりの外食だった。食事にはいまだ過剰なほど注意しているので、思いつく良さそうな店を選んだ。

アパートから少し離れた学生街にある手作りの定食屋。久しぶりに食べたその料理は、店の客のほとんどである学生のために、心を込めて作られていることが今になってよくわかった。主菜だけでなく、副菜にも優しい手が加えられている。『あんたがた、ちゃんと「食事」をせんといかんよ』と。

そんなありがたさを以前ならば感じることはなかった。ただその感謝を伝えようにも、会計をするときには無意識に目を逸らしてしまうので、しばらくは難しそうだ。

そう、今人と相対するときに目を見て話すことができなくなっているのだ。加えて、なぜだか過度に緊張して、うまく言葉が出てこないこともある。そういえば去年高知に戻る直前に怒られたことがあった。

『ちゃんとあたしを見て話をしてよ! 目を逸らしたいのはわかるけど、あたしはそんなのまったく気にしないから!』

でもおよそ二年もかけて作り上げてしまったくせはそう簡単に抜けるものではない。

人に対する恐怖、人に嫌われたくないという恐怖だろうか。いやそれ以上に、ごく普通に自分というものを持って、理性的に社会生活ができるのだろうか、という強い不安を植え付けられたままだからそういう行動にでるのだろう。それに今はまだ、負の感覚が生み出したモンスターが、頭の芯からいなくなったとは到底思えないのだ。

一緒に大学の門をくぐった友達とは一学年違うことになった。これは、もうこの先彼らとは会わなくなるかもしれないということを意味する。

ただし、積極的につながりを持とうとしてくれる友達が数名いることは救いになっている。そして、体を支えてくれる方々が近くにいることも心強い。

目指す先に向かって歩いていくための、現時点での最善の状況はできていた。

あとは踏み出せるかどうか……。

※本記事は、2020年11月刊行の書籍『桜舞う春に、きみと歩く』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。