無医村医療への目覚め

久留米大学医学部での基礎学習久留米大学近くの篠山町に下宿を構え、およそ三〇分の道程で街の郊外にある大学の教養部に通学する日々が始まりました。

この課程は、日本大学獣医学部で修了していた課程の、いわばおさらいのようなものでしたから、時に時間を持て余し、近くの高良山を散策することしばし、という状態でした。

汗ばんだ後にいただいた、冷たい甘酒の味が忘れられません。

教養課程を修了し、いよいよ旭町の専門課程へと進学しました。まず基礎医学を習得するために、解剖学、生理学をはじめ、細菌学、寄生虫学と、見るもの聞くものすべて新鮮そのものであり、続いて人体の解剖実習が始まりました。

解剖実習室では、数十体の尊い献体がテーブルに並べられ、その異様な光景に皆が絶句したものでした。加えて、ホルマリンの強烈な刺激臭に慣れるのに、かなりの時間を要したものです。学生四人で一体を受け持ち、手始めに皮膚の観察を始めました。

数カ月をかけてメスとピンセットを手に、皮下組織、筋肉、神経、血管、各臓器へと進み、人体の深遠な構造をつぶさに観察していきます。そして最後に開頭して脳組織を観察し、さらに骨、関節の観察をしました。

当初、解剖実習室の異様な雰囲気に恐れをなしていた学生たちも、やがて医師の卵としての使命感に燃え、解剖学の教科書などを傍らに置いて、夜遅くまで献体に対峙(たいじ)したものです。

基礎医学修得後の三年次からは、専門科目の臨床講義が始まりました。多岐の疾病に関わる外科、内科、小児科をはじめ、眼科、耳鼻咽喉科、産婦人科、精神科などの講義が目白押しで、休む間もありません。

これらの科目の学習を通し、さらに実習棟での診療実習を通して、学生たちは将来、自分はどの科の医師としての道を進むのか、進路を決めるための佳境に入っていくわけです。

私にも、その進路選択の時期は迫っていました。

久留米大学医学部第一外科 脇坂教授との出会い

そのような日々を送っておりました頃、第一外科脇坂教授の臨床講義の際に、アフリカのアルベルト・シュヴァイツァー博士のもとで、数度にわたり診療活動をしておられることを直接教授から伺い、あまりにも偶然とは申せ、まるで神のお導きかのような感覚に陥り、感慨無量、言葉では表せない身震いが体を駆け抜けていきました。

一も二もなく、脇坂教授のもとで将来外科への道を研鑚(けんさん)し、国内外を問わず、〝ひたすら病める人びとのために〟奉仕してまいる決意を新たにしました。

医学部四年次に、第一外科主導による沖縄離島での無医地区診療があり、初めて脇坂教授のお供をいたしました。まず、那覇空港より双発の米軍用機で八重山(やえやま)石垣島に降り立ち、次いで西表島(いりおもてじま)へエンジン付きの繰り船で出港しました。

荒波に揺られて港に着いたものの、接岸できる桟橋がありません。仕方なく海中の浅瀬に飛び降り、診療用具、手術機材、薬品類を担ぎ上げて上陸し、祖納、星立部落で約二週間の診療活動の手伝いをしました。

戦時中、当地はマラリアやフィラリアで多くの犠牲者が出ている僻地(へきち)でした。これまで、ほとんど医療の恩恵に浴することがなかった地域でしたから、住民の皆さんには大いに喜ばれたものでした。中でも、フィラリアによる直径三〇センチメートルもあろうかと思われる、巨大な陰のうを初めて目の当たりにしてびっくりしたことは、今でも鮮明に覚えています。

シンメーナービ(直径が一メートルもある大きな鍋)で、手術のたびに術衣の煮沸消毒を繰り返し、十数人の陰のう水腫の手術が行われました。当地での診療を終えると、メンバーの多くは帰学しましたが、沖縄出身の医師と学生の数人は、さらに慶良間(けらま)諸島、渡嘉敷(とかしき)、座間味(ざまみ)、阿嘉島(あかじま)を繰り船で回り、夜間はフィラリアの検査などで多忙な日々を過ごしました。

これらの地域は無医地区で、住民の健康管理には、琉球政府特定の医介補という制度がありました。そこには、旧日本軍の衛生兵として活躍された方が従事しておられました。

後年、三〇年ぶりにお目にかかれたときは、感慨深いものがありました。