ライシャワー事件が残したもの

こころの病をもつ人たちを閉鎖病棟に閉じ込めるのではなく、通院治療などで対応しながら、少しずつ社会のなかで受け入れていこうという動きが芽ばえはじめた矢先、時計の針を戻すようなショッキングな事件が起こります。

昭和39(1964)年3月24日、東京・赤坂の米国大使館の裏玄関からエドウィン・ライシャワー大使が車に乗り込もうとしたところ、1人の少年が刃渡り16センチのナイフを手におそいかかり大使の右太ももに切りつけました。少年はその場にいた海兵隊員などに取り押さえられましたが、大使がおった傷は深く、虎の門病院で大手術になりました。

現在でもこのような事件が起こればただごとではすみませんが、当時の日米関係を考えれば外交問題に発展する恐れもありました。また、東京はオリンピック開催を約半年後にひかえ、治安をアピールしなければならない大切な時期。ときの池田勇人内閣は窮地に立たされます。

しかも、われわれ精神科医にとってショックだったのは、この少年が高校生のときから統合失調症をわずらっていて、事件を起こした当時も治療を受けていたことでした。世論は「池田内閣は精神病者を野放しにするのか!!」と糾弾し、それに押されるかたちで取り締まりが強化されることになりました。

精神病院は当時もいまも厚生省(厚生労働省)の管轄ですが、まるで「こころの病をもつ人は犯罪者予備軍である」といわんばかりに警察庁が乗り出してきたのです。

警察は自治体や精神病院に患者名簿の提出を要求し、監視・取締を徹底するために動きだします。また、こころの病をもつ人たちの隔離強化が進められようとしたのです。

これに対して、精神科医を中心に日本精神神経学会や病院精神医学懇話会の医師たちが反対の声を上げ、こころの病をもつ人の家族たちが家族会を結成して各界への陳情を繰り返したのでした。

それまでこころの病をもつ人の家族たちには、どこかにあきらめの気持ちがありました。こころの病(統合失調症)が完治のない病であることにくわえ、経済的な負担、将来への不安、社会の偏見、さまざまな苦労……そういったものを誰にも相談できず抱え込み、耐えしのぶのが家族の姿でした。大家族の頃は誰かしら面倒をみる人がいましたが、高度成長期とともに核家族化が進み、こころの病をもつ人とその家族はますます孤立化していたのでした。

看病に疲れはて、追い詰められた家族が「とても手におえないから病院で預かってくれ」と患者をつれてくると、精神病院は「一生お預かりします」と引き受ける――精神衛生法(昭和25年)の成立以降、こころの病をもつ人はますます社会の見えないところへ追いやられていたのでした。

そうした家族の精神的負担を軽減するため、昭和37~38年に各地の病院で家族会結成の動きがありました。最初は治療者側(医師や病院)が家族を集め

「うちの子の病気は治るのだろうか」
「結婚はできないだろうか」
「子どもに遺伝しないか」

などの不安や質問に答える場であったのが、次第に家族同士で励ましあったり慰めあったりする場になっていきました。

そうした病院単位の家族会が「精神衛生法改正」の議論を前に連携し、声を上げたのです。昭和40年9月には「全国精神障害者家族会連合会」(全家連)が結成され、「保安中心より医療中心の精神衛生法を」「社会の偏見を除去せよ」などのスローガンをかかげた社会運動への道を歩みはじめたのでした。

運動は大衆的な盛り上がりとなり、「改正・精神衛生法」で警察権力の介入をふせぐことに、それなりの成果をもたらしました。これまで社会の目をはばかり、世間体を気にして隠れるしかなかった家族が連帯して社会に声を上げたことは、こころの病をもつ人と社会のかかわりを考えるとき、ひじょうに大きなターニングポイントになったと思います。

※本記事は、2017年10月刊行の書籍『ヒューマンファーストのこころの治療』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。