家の図面を見ると、私の希望通りに設計されているような間取りになっています。おかげで約半分ほどの値段で家も建てることができました。

土地、工場、家まで、安価で建てられるように、私の目の前に同時に集まってくれたような不思議な気がしました。父母も健在でしたので、喜んでくれたことと思います。

工場の竣工式にはTOTOの工務課課長をはじめ、生産技術課、同業者、そして近隣の方々もお祝いに駆けつけてくださり、盛大な祝賀会をすることができました。

[写真] 1973(昭和48)年仲宗根鉄工所(現・ソネック工機株式会社)の工場竣工。

そのころ妻は妊娠していました。無事に生まれてくれることだけを祈っていました。七か月の早産で男の子が生まれましたが、未熟児ということで保育器に入れられました。

医師から子供の容態について説明があり、「二、三日しかもたないでしょう」と言われました。それでも最初の子供です。必死に祈りましたが、残念なことに三日間の命でした。

妻は我が子を抱くこともできずに悲しみにくれていました。「陽一」と名前を付けて家族で葬儀をしました。今の医療だったら生きていたのではないかと思うと残念で仕方がありません。

以前、妻は胞状奇胎という異常妊娠をしたこともあり、流産も二度していました。子供を産めないかもしれないと思い始めていましたので、あきらめの心境もあり、弟の子供を可愛がっていました。

その後、一女一男の子供に恵まれ、やっと願いがかなったという思いでいっぱいでした。下の息子ができてからまもなく妻は子宮筋腫と診断され、子宮を摘出する手術を受けました。

婦人科の先生から「この状態でよく子供が二人も生まれましたね」と言われました。私の兄弟の中で、長男の私の子供が一番遅く生まれました。でも今は四人の孫に恵まれ、嬉しい老後を過ごしています。

※本記事は、2017年11月刊行の書籍『霧中の岐路でチャンスをつかめ』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。