近代の日本において新しい女性像を作り上げた「蝶々夫人」のプリマドンナ三浦環。最近では朝ドラ『エール』にも登場し話題となりました。本記事では、オペラ歌手として日本で初めて国際的な名声を得た彼女の華々しくも凛とした生涯を、音楽専門家が解説していきます。

生涯と事蹟

■音楽学校時代~自転車通学

環は毎日朝六時に芝の家を出た。瀬戸内晴美は『お蝶夫人』の中で上野までの道順を「芝から一ッ橋、神田、本郷をぬけ、三丁目の兼安の前から切通へ向い、上野の池の端へ出る」と推定しておられるが同感に思う。(※18)(※19)

ただ、本郷三丁目まで遠廻りしたかどうか若干疑問であるが「兼安までは江戸の内」のたとえもあり、兼安を目指し大通りを安全に通学したと考えれば筋の通ることである。(※20)

音楽学校の他の生徒たちはどのように上野の山に通学したのだろうか。環より一級下の鈴木乃婦子(一八八五~一九七○)は当時を次のように回想する。(※21)

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あのころ、通学は四谷から飯田橋まで汽車で行きそれから上野まで歩くんです。(注・約四・五キロ)雨の降る日は人力車に乗りましたがたいていは歩きました。みんな歩いて行ったんですが相当時間がかかりましてね。

でも万世橋までまいりますと鉄道馬車がそこから上野まで行ってたのでそれを利用し、上野の山下に出ればそれから車(注・人力車)がございましてね。それで十銭で学校まで行けましたの。

でもね、私たちの先生が車に乗っていらっしゃるので、生徒の身分で私が車で行っては悪いと思いましてね、昔のことですからてくてく歩いて行ったものです。

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