結果、ストレートで東大に合格することができたのですが(昭和29年)、医学部に入るにはさらなる関門がありました。当時の東大には理Ⅲ(医学コース)がなく、いったん理Ⅱ(農理薬医学コース)に入ってから、あらためて医学部の選抜試験に合格しなければならなかったのです。私はその試験に落ちて、二期校(入試日程が遅い)だった東京医科歯科大学医学部に入ることになりました。

第二志望ではありましたが、そこには運命の出会いも待っていました。『感情の世界』の島崎敏樹先生が、精神医学教室の初代教授として東京医科歯科大学におられたのです。

私は最初から精神科へ進むことを決めていたので、学部2年の時に仲間と「精神医学研究会」を作りたいと、島崎先生に相談に行きました。集談会や研究会でのお言葉の一言一言がいまでも私の心に残っていて、問題に直面するたびに思い出されます。

島崎先生は学会の権威でありながら、いつも包容力のある態度で接してくださり、私はますます魅了されました。島崎先生は学問上の恩師であるとともに、こころの恩師でもあります。

学生時代には先輩のツテを頼って精神科以外の研修もやりました。いまでは絶対ありえないことですが、当時は医師免許がなくとも実地訓練をさせてもらえたのです。

あるときなどは御茶ノ水の病院で外科手術に立ち会いました。昭和32~33年の盛夏のことで、当時はクーラーなどありませんから、手術室に巨大な氷柱を持ち込んでのオペです。

私は鉤持(こうも)ちといって、切開部を開けておく鉤を持って1時間でも2時間でも押さえている係でした。ランニング姿ですが汗が玉のように吹き出し、滝のように流れ落ちます。執刀医の先生はさすがに白衣を着ていますが、後ろ側へ回るとパンツ一丁、骨をのこぎりでギコギコと切断し、汗だくで“作業”しています。

「自分にはこんな大工仕事はとても勤まらない」とヘトヘトになったのを覚えています。その後内科でも研修をして、精神科に入局しました。

※本記事は、2017年10月刊行の書籍『ヒューマンファーストのこころの治療』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。