環には人を魅了する華やいだところがある反面、天性の素直さ、優しさが備わっていて生涯を通じて人からその行動を謗られ、悪意や誤解にあってもその心の傷をあらわにすることは決してなかったと彼女を知る人は語っている。無垢な気持を持ち続けた人だとも言える。

環が晩年、山中湖畔で隣人として過ごし、環の最期を看取った気賀麗子(一八八六~一九八二)は彼女との出合いの頃を回想して次のように語った。(※17)

明治三十五、六年ごろのことです。兄が東大の建築科におりました時に、私は治療のため東大の医科に通っており一緒に下宿してましたの。暇なものでしたから、いつも不忍池の蓮の花を写生していました。

もう帰ろうと思う時分に環さんが自転車で颯爽と来まして、それが毎日でございましょう。あちらから自転車を下りてまいりまして「一寸拝見!」なんて言いまして、そばに参りますでしょ……。

それが私と環さんのお友だちの始まりです。その頃は紫紺の袴をはいていましたね。おさげを長くして。十分ぐらいいつもお互にお話をしました。

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『新版 考証 三浦環』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。