大正7年、東大精神病学教授の呉秀三という人が、精神医療の現状を調査して、その惨状を次のように述べています。

「わが国に十数万人もいるこころの病をもつ人たちは、病気になってしまったことも不幸ではあるが、この国に生まれてしまったことで、さらに不幸を重ねている」

呉の意見に基づいて大正8年に「精神病院法」ができ、公立精神病院の設置を進めることになったのですが、富国強兵に邁進していた大日本帝国には余裕がなく、病院建設は遅々として進みませんでした。昭和15年になってようやく公・私立合わせて2万5000床に達したものの、第二次世界大戦に突入して戦災になり、終戦時には4000床まで激減したのでした。

私は昭和10年の生まれですから、終戦を迎えたのは10歳のときです。いまでも覚えているのは上野のお山(上野恩賜公園)や地下道の惨状で、戦災で焼け出されて行き場を失った浮浪者や孤児たちがたむろして、ものものしい雰囲気でした。

そこにはこころの病をもつ人びともおおぜい含まれていて、あまりにも悲惨であるということから国も救援に乗り出します。ですが敗戦直後の混乱期、できることといえば収容所に保護することくらいであり、食べものもろくに提供できません。

結局、収容所を抜け出してはまた上野のお山に戻ってしまうという繰り返しだったようです。

昭和25年には「精神衛生法」が成立しました。これは「もう座敷牢に監置するのもいけない。こころの病をもつ人は精神病院に入れなさい」という法律ですが、まだまだ国には公立の精神病院を作る財源がありません。そこで国は金融機関に号令をかけて融資させ、全国各地に民間の精神病院をどんどん作らせたのです。

相場の格言に「国策には乗れ」というのがありますが、このときはまさに精神病院がそれでした。作れば儲かるというので、精神医療とは縁もゆかりもない医師が精神病院を作ったり、医師ですらない事業家が精神病院の経営に乗り出したりもしました。

こうして終戦直後にはわずか4000床しかなかった入院施設が、昭和30年には4万床、昭和40年には17万床、昭和50年には25万床、昭和60年には37万床と、どんどん増えていったのです。私が精神科医になったのは、民間の精神病院がうなぎのぼりに増えはじめた、まさにこの頃だったのです。

※本記事は、2017年10月刊行の書籍『ヒューマンファーストのこころの治療』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。