相馬事件と座敷牢

日本では江戸時代に入って徐々に西洋医学の影響がおよんできましたが、こころの病にかんしてはあいかわらず「憑きもの」や「たたり」の認識が主流であり、1819年に陸奥の漢方医・土田献(翼卿)が「癲癇狂経験編」で1000の症例に基づいて臨床経験をまとめたのが精神医学に踏みこんだ最初でした。

施療所に収容され治療を受けた人はほんの少数で、ほとんどは神社や寺院に預けられ、滝に打たされたり、温泉につけられたり、座敷牢に監禁されていたといいます。

明治以降にヨーロッパの近代精神医学が入ってきてようやく病人(脳病や神経病)のあつかいを受けますが、その措置はやはり癲狂院(てんきょういん)や脳病院に隔離され、閉じ込められるというものでした。

日本に最初の精神病院ができたのは、明治8年、京都の南禅寺の塔頭(別院)に作られた公立の「京都癲狂院」でした。私は南禅寺に行って聞いてみたのですが、どこにそれがあったのか誰も知りませんでした。

次に明治12年に東京の上野に「東京府癲狂院」が作られ、これが本郷→巣鴨→世田谷へと移って現在の「都立松沢病院」になっています。

明治16年から26年に有名な「相馬事件」が起きます。旧相馬藩主の相馬誠胤(ともたね)という人が、24歳のころからこころの病になり、居室に監禁されます。旧家臣の錦織剛清はこれを家令(宮家や華族の家督を管理する者)志賀直道らによる主家のっとりと考え、不当監禁のかどで告発したのです。

誠胤は東京府癲狂院など3つの病院に入院し診断を受けますが、正常か否かの判断がわかれ、事態はますます混乱。さらに錦織は誠胤を入院中の病院から連れ出して取り押さえられたり、新聞に「相馬家紛擾之顛末」を投書するなどしたので、この件は世間の注目を集めるところとなりました。

結局、誠胤は明治25年に糖尿病で亡くなるのですが、錦織は「毒殺された」と訴えて遺体を掘り出して解剖しました。しかし、毒殺の証拠が得られるはずもなく、逆に重禁固4年・罰金40円の実刑を受けたのです。

この事件を契機に、政府は明治33年「精神病者監護法」を制定し、初めてこころの病をもつ人たちのあつかいを法律に定めます。この法律は不法監禁を防止するため、そうした人たちを保護する場合には、医師の診断書を添えて警察に届け出るべし、というものでした。

とはいえ、当時は公立の精神病院など数えるほどしかありません。つまりこの法律は「家族が座敷牢を作って許可を得たうえで監置せよ。警察は社会保安のためにこれを取り締まれ」というものでしかなかったのです。

※本記事は、2017年10月刊行の書籍『ヒューマンファーストのこころの治療』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。