人質は「三億円の田んぼ」……。
世界一の日本酒をめぐり、渦巻く黒い思惑。
『田に毒をまいた。残りの山田錦が惜しかったら、五百万円用意しろ』。
烏丸酒造に届いた一通の脅迫状。見れば一本百万円を超える純米大吟醸酒の元となる田の一角が枯らされていた。捜査の過程で浮上する、杜氏の死にまつわる事件の疑惑。そして、脅迫犯が突きつける、前代未聞の要求とは――。
酔(よ)みすぎご注意。 ふくよかに味わい深い、発酵醸造ミステリーを連載にてお届けします。
玲子は、腕組みしてうなずいた。
「犯人の行方は後にして、先へ進もう。それから?」
「多田杜氏は、発見時死後数時間以上経過。死亡推定時刻は、前夜の八時から九時。死んでから、もろみタンクに投げ込まれたとすると、体温が下がった後。夜半過ぎから、朝にかけての間でしょう」
「外傷は?」
「後頭部に軽い打撲痕が見られます。誤ってタンクに落ちたとき、縁で打ったのかと思ってました。あとなぜか、背中に大きな霜焼けが」
「霜焼け?」
「軽い凍傷ですね。背部から腰部にかけての広い範囲です。平たく冷たい物に、長時間当たっていたと思われます」
「放りこまれたタンクの中は、五度くらいだったらしいが?」
「もっと低温ですし、生きているときの話です」
「?」
「そないなことより、死亡推定時刻の関係者のアリバイは、どないなっとるんや?」
とうとう勝木は、待ちきれなくなり、口を挟んだ。霜焼けの理由など、犯人に聞いた方が早い。
「前夜、烏丸酒造は社員総出で宴会だったらしい。全員あるんじゃないかな。詳しいことは、わからないが」
「当人たちに、聞いてみるのが早いな」
勝木は、立ち上がりながら、上着を手に取った。
「烏丸酒造へ行くなら、私も」
高橋警部補も立ち上がり、上着を取った。
意外なことに、玲子は黙って座ったまま。軽く手を、振っただけだった。
※本記事は、2020年10月刊行の書籍『山田錦の身代金』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。
【主な登場人物】
山田葉子:日本酒と食のジャーナリスト
矢沢タミ子:居酒屋経営者
矢沢トオル:タミ子の息子
葛城玲子:播磨署警察官 警視
高橋 仁:同 警部補
勝木道男:同 捜査一課課長
烏丸(からすま)秀造:『 天狼星(てんろうせい)』醸造元 烏丸酒造 蔵元
烏丸六五郎(むつごろう):同 先代蔵元
多田康一:同 前杜氏(とうじ) 故人
大野 真:同 副杜氏
佐藤まりえ:同 賄い担当
速水克彦:同 新杜氏
富井田哲夫:県庁農林水産振興課課長
松原拓郎:農家
松原文子:拓郎の妹 農家
桜井博志(さくらいひろし):『獺祭(だっさい)』醸造元 旭(あさひ)酒造会長
甲斐今日子:酒屋
黒木 将:酒屋
ワカタ ヒデヨシ:元プロサッカー選手、日本酒プロモーター
スティーブン・ヘイワード:有機認証機関検査官