《ヨーロッパにおいてはプライベートなものがパブリックなものより、むしろまず重視せられているというものの、概念自体に正邪善悪の倫理的な意味はいずれもふくんではいない。ところが公と私はちがう。公は“ただしく偏願(ママ)のない”善い意味をもった語であるのにたいして、私は反対に“よこしまでありねじけた”という悪い意味をもった語なのである。》

つまり、「公」と「パブリック」、「私」と「プライベート」にはかなりの隔たりがあるということなのだ。「公」が善で「私」が悪であるとすれば、欧米人には理解されにくい「滅私奉公」という概念が生ずるのには何の不思議もない。

そして、日本では「個人主義」はしばしば「利己主義」と同一視されるのも私たちの知るところである。私は本連載において、補助金の論理を、もっぱら日本の社会経済構造から説明しようとしている。しかし、「私」が「公」の前に埋没してしまうという日本人の精神構造もまた、補助金の考え方に一定の影響を及ぼしていることは疑いがない。

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『補助金の倫理と論理』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。