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一方の私は、広島県崇徳高校の野球部の出身で、あと一歩のところの決勝戦で広島商業に2対4で惜敗し、その広島商業は第55回夏の大会で全国制覇を成し遂げ、市内で優勝パレードをしていた。

広島商業の優勝と自分たちの敗戦(準優勝)の差にショックを受けた私は、今まで野球漬けの学校生活であったため、残り少ない夏休みを利用して急に広島を離れ旅行に行きたくなり、なぜか古都京都に行くことにした。

そのための旅費を稼ぐべくアルバイト先を探していたとき、

「ハメ、広島市役所のゴミ収集のアルバイトをしとるんじゃが、わしは都合でやめにゃいけんことになっての。代わりにやってみんか。午前中だけで2500円はもらえるんじゃ」

と、崇徳高校に山口県から転校してきた同級生の岩井和泉(いずみ)から言われ、崇徳高校野球部のキャプテンをしていた森本正治(まさはる)(その後料理の鉄人になる)を誘い、二人でアルバイトに励んだのである。

このアルバイトは午前中、広島市の北部にある祇園(ぎおん)支所(現在は安佐(あさ)南区役所)地区の家庭ゴミを、2トントラックの荷台に2回満杯に積み込み、ゴミの埋め立て場に捨てる仕事であった。

市役所の清掃課の職員の方々が、夏休みをとり、その空いた埋め合わせに我々がシフトされていた。

ゴミ収集車の後部にぶら下がり、すぐさま飛び降り、夏の日差しが容赦なく強く照りつけるゴミ置き場に置いてあるゴミ専用袋に入っているゴミを、2トン車の荷台に投げ込む。それを年老いた男性職員が上手に受け取り積み上げていくのである。

ゴミの多い日は、2トン車の荷台が山のようになり、

「よくもまあ、こんなに投げ入れたもんじゃ」

と、滴り落ちる汗をタオルで拭きながらゴミの山を眺めていた。

ある日、車の後部にぶら下がって、ゴミ収集車が坂道を走っているとき、水を切っていないゴミ袋から生ゴミのミックスジュース状になった液体が私の足下に流れてきた。その悪臭のするゴミの汚水を避けながら、車から落ちないように車の後部に備えられた取っ手をしっかり握っていた。

現在、私の住んでいる埼玉県・加須(かぞ)市のゴミでは、数年前から20、30、40リットルの各種の有料ビニール袋になっているため、生ゴミの水分が少しくらい残っていてもその水が袋から出ることはない。当時の広島市のゴミ袋は紙でできていて、しっかり水分を切らないとゴミ袋の底に水が貯まり、底が抜けることがしばしばあった。水分を切っていないゴミ袋を投げた際には悪臭のするゴミが散乱し、手の施しようがない。

こんなとき、住民の方々が素早く処置をしてくれたことがあり、この経験があって私の普段のゴミ出しはできる限り水を切るか、家庭菜園をしている土の中に埋めることにしている。

さらに8月の真夏の作業ゆえに、汗まみれになり、のどがカラカラに渇いているときには、住民の方々から、

「お兄さん、暑い中、ご苦労さん、冷たい麦茶でも飲んで」

と、差し出された麦茶は甘露の味であり、高校時代に野球漬けの私は、野球以外の人たちの人情に触れ、将来自分もこの住民の方々のように、人にはやさしさを持って接していきたいと思った。

このアルバイトで、午前中だけにもかかわらず高額なバイト代がもらえた。なおかつ良かったのは、ゴミ収集で出る段ボール、紙類、ビンを収集したゴミをゴミの埋め立て場に捨てに行く前に、廃品業者のところに立ち寄り、余禄(よろく)として、普段は数百円、多いときには1000円近くをいただき、しっかり貯金できた。

約2週間近くのアルバイトをさせていただき貴重な体験をした。

ゴミ収集というきれいな仕事ではなく、俗にいう3K、「汚い・きつい・危険」の部類に入る仕事ではあったが、職員の方々が真夏の炎天下で家族のために、必死になって汗を拭きながら働いておられた姿を拝見したとき、

(懸命に生きておられる。)

と、高校生ながら、こころから思わずにはいられなかった。

後日談として、大学入学後の夏休み前に、千葉県・松戸市の貸しアパートの呼び出し電話に、

「広島市役所の祇園支所の課長ですが、実は、うちの職員たちから、この夏休みに濱本君にアルバイトに来てほしいとの依頼がたくさんあって、もし良ければ来てくれませんか」

と、呼び出し電話がかかってきた。

即、快諾し、夏休みは午前中ゴミ収集、午後は高校3年生からお世話になっている喫茶店「モンブラン」で夜の10時近くまでアルバイトをした。このパターンは結局高校3年から大学4年まで続くことになる。

そして当時、夢にまで見た古都京都へ。

広島から京都まで新幹線が走っていたが、それよりも広島の宇品港から夜フェリーに乗って朝方大阪に着く船便の方が安かったため、同級生の森本と共にグリーンフェリーに乗船し瀬戸内海を航行した。

京都では、1級上の崇徳高校野球部の星先輩が京都産業大学準硬式野球部に在籍されていたので、その先輩を頼りに先輩の貸し部屋に宿泊させていただいた。

すぐに、京都市内を走る市内電車に乗って、市内観光をした。

「ハメ、ここが担任の国語の授業の中に出てきた『龍安寺の石庭』なんだ」

と、初めての京都旅行に感動した森本は興奮気味にしゃべっていた。

滞在中、星先輩の同じクラブの同級生の軽自動車で京都・河原町辺りを走り、案内してくださっていたとき、前に停まっている車に追突するハプニングがあったり、広島弁しか知らない私にとって京都弁を聞いて体がぞくぞくする感覚を持ちながら、京都の町並みの美しさ、歴史にすっかり魅了されていた。

「こりゃあ、高校卒業後は広島にとどまっているより、広島を出て京都の大学に行って、その間、日本中、世界中を見て、いろいろな体験をしたほうがええの」

と広島弁丸出しで、森本に語っていた。

森本は当時の崇徳高校野球主将で強肩、強打の捕手として入部し、将来はプロ野球選手になれる逸材であったが、残念ながら肩を故障し、最後はファーストにコンバートされ、チームのクリーンナップを任されていた。

この森本と二人で高校時代初の京都旅行に行き、二人して古都京都に魅せられ、京都の大学を目指すのであるが、森本は見事京都産業大学に合格。

しかしながら、家の事情で入学を辞退することになり、大学進学を断念。そして、当時の担任の成光(なりみつ)先生の紹介で広島市郊外にある「一番寿司」に就職をしたのである。

そののち、森本が広島市内に自分のお店を出したことを知った私は、その年に弱冠26才で花咲徳栄高校の野球部監督になったため、ふるさとの広島に帰り、自分の原風景を確認したり、お墓参りをしたあと森本のお店に向かった。

「森本、久しぶり。今度、花咲徳栄というなかなか読めない名前の学校の野球部監督になったんよ。いつかは日本一のチームにするけん」

「おう、そりゃよかったの。ところで、ハメ、わしゃあ、今度アメリカに行くんよ。ほいで、向こうで頑張ろうと思うんよ」

「そりゃ、すごいの。英語は大丈夫か?」

「おお、今一生懸命、辞書を片手に頑張っとるんよ。ところで英語の授業で習った〝ホイスパア〟とかという単語の意味は確か〝ささやく〟だったかなあ」

と、お互い懐かしい高校時代の英語の授業のことで盛り上がっていた。

そして、十数年が経ち、当時、人気テレビ番組「料理の鉄人」という番組を観ていたら、

「それでは、本日の挑戦者と戦うのは『和の鉄人』森本正治!」

と言っているではないか。

番組では森本が流暢な英語で、アナウンサーの質問に答えているではないか。

(こりゃすごい! 森本はアメリカに行って大成功を収めたんだ。よかったなあ。)

と、こころから友の成功を喜んでいた。

思えば、崇徳高校卒業後の3月末に、私は関東へ、森本は地元で就職することになり、最後の別れの際に、

「ハメちゃん、わしが将来有名になったときに、このサイン入りのボールに価値が出る日が来るから、その時のために持っといた方がええぞ」

と、硬式ボールに「友情」と書かれた森本のサイン入りのボールを、今も私の机に飾っている。

昨年、突然私の携帯に電話が入り、

「ハメ、今広島におるんじゃが、すぐ来いや」

「おい、今わしゃあ、埼玉じゃけん。今すぐには行けんよ」

世界中を飛び回っているので、広島、埼玉間は大した距離ではないのだろう。

すると森本が、

「ほいじゃ、今度、六本木に店を出したから、わしがおるときにこんか」

「あそこは完全予約制ではなかったか」

「何をいうとるん。わしの店じゃけん何とでもなる」

(さすが、オーナーになるとすごい。)

今年の7月、その六本木の新たなるお店に行き、何十年振りかに、「森本」の手作りの料理を味わい、夢心地の時間を過ごしていた。

森本はアメリカに移住し、フィラデルフィアに自分の店を構え、そこには前アメリカ大統領オバマ氏が常連客で来店している。まさに、

―― 世界のモリモト ――

―― 料理の鉄人モリモト ――

この言葉が、本当によく似合う良き友であった。

※本記事は、2017年12月刊行の書籍『女子硬式野球物語 サクラ咲ク2 旅の果てに』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。