そして4年後、

「濱本、桜井高校が昨年は準優勝して、今年は決勝戦で勝って、初めて甲子園出場が決まったぞ」

と、河村から歓喜の電話が入った。

なんと、桜井高校は夏の甲子園に初出場し、その後も計4回も甲子園出場を成し遂げたのである。

昨年、40年振りに、富山で返田さんにお会いしてお話することができた。現在でも地元の少年野球の球児たちに熱心に指導をされており、そんな中、私が、科学的な野球の最新情報をお伝えしたとき、

「濱本、新しいものがすべてではないぞ、基本をしっかりできていないものに科学的な練習をさせてもだめだよ。『温故知新』という言葉があるだろう。古いものの中にも素晴らしいものがあるから、そこをしっかり見極めていかなければいけないね」

と、お年を召された返田さんではあったが、野球の指導に限りない情熱を持ち続けられる熱を感じ、改めて私も今後の指導の中に「温故知新」を大切にしようと思った。

本当に河村とは、よく語った無二の親友であった。その二人が皮肉にも大学3年生の秋の全日本選手権大会個人戦の決勝戦を行うことになるのである。

この大会では、河村は1回戦から準決勝まで念心の戦いぶりで、回し蹴り、中段突きなどを見事に決め、傍から見るも絶好調に見えた。

一方、対する私は、この日のために猛練習を課して臨んだが、初戦から調子が上がらず技に精彩を欠き、準決勝まですべて延長で粘って勝ち進むありさまであった。

決勝戦に入る前に、拳法道部の部長であられた大崎教授が、

「濱本、今ひとつ調子が悪いみたいだから、鍼をしてあげようか」

と言われ、河村は絶好調であったためにこの誘いを断ったが、私は教授が鍼灸の権威者であることも知っていたので、すぐさま、

「先生、お願いします」

両足の膝下にある「三里(さんり)のつぼ」というところに鍼を刺し、電流を流したところ、しばらくして立ち上がって動いてみると、何と先ほどよりも動きが良くなったのをはっきりと感じ決勝戦に挑んだ。

そして決勝戦。

普段の練習からお互い組手を行っていたので、河村の攻撃パターンは熟知していたが、この日は気迫、技の切れは河村が上回っていた。試合は延長の延長にまで持ち込まれ、最後は毎日のようにイメージトレーニングしながらのシャドウ組手の一つの攻撃であった、ワンツーパンチからの右足の前蹴りが無意識に出ていた。

河村は、その瞬間、私の胴体に装着しているプロテクターに中段突きを突いたが、私の前蹴りがほんのわずか早く命中し、主審が私の方に手を挙げ、勝利を得た。

まさか、河村と日本一を競うとは思っていなかった。

勝負とはいえ、複雑な気持ちであった。後日談ではあるが、河村は会場内のトイレで悔し涙を流しながら、

「濱本の『ダラ』(馬鹿野郎)!」

と富山弁で悔し涙を流しながら言っていたそうである。

大学卒業後も、河村は私が埼玉栄高校から花咲徳栄高校の開校に伴って転勤する際、引っ越しの手伝いをするために、遠路富山県からわざわざトラックで埼玉県まで来て、引っ越しを手伝ってくれた。

また、お互いの結婚式に出席し、お互い友人代表でスピーチを行ったり、私の家族が富山を訪れたときなど、名勝の観光や宇奈月温泉に入浴して別世界を堪能していた。

2011(平成23)年4月のある日の早朝、河村の奥さんの訃報が入る。

「美智子が死んだ……」

「分かった、すぐにそっちに行くから」

と、愛車クラシックオデッセイに乗り込み高速道路を飛ばして告別式を行う場所に到着。

遺体を載せた黒い車から河村が降り、無言の握手をした。

この握手は言葉では表されないメッセージであった。

聞くところによると、河村の奥様、美智子さんは朝方胸が苦しいということで病院に行き、検査に入った際、心臓の細部を撮影するために造影剤を飲んだところ、血管が破裂し亡くなられたそうである。本当に突然の死であった。

そして、河村の自宅で、奥さんの遺骨と河村と私の3人で、ごろ寝をして美智子さんの昔話をしながら一晩を過ごしたのである。

美智子さんが逝去され、幾ばくかの月日が過ぎた2016(平成28)年9月。

河村との決勝戦前に私に鍼を施し、コンディションを整え優勝に導いてくれた大崎教授は20年前にお亡くなりになり、その奥様は80歳の傘寿を迎えられていた。奥様のお元気なうちにみんなで、大崎先生のお墓参りがてら奥様を元気づけに行こうということになった。

河村を含めた拳法道部OBの7人で静岡県・伊豆高原に向かい、奥様と一緒にお墓参りをした。その後、大崎先生のご自宅に招かれ、奥様の美味しいお料理をいただきながら、例のごとく昔話に花が咲き盛り上がっていた。

その話の中で、またもや河村が豪快快活のエピソードを語っていた。

昨年、還暦に近くなったという理由で、河村の小学校時代の同級生が集まり、小旅行に出かけることになった。行き先は三重県・伊勢志摩である。

河村はじめ同級生たちは、早朝バスで富山を出発し、出発と同時に酒盛りとなり、目的地の伊勢神宮に到着したときは、河村は酩酊状態であったそうである。

伊勢神宮で同級生たちがお祓いをしてもらっている際に、雅楽の曲が流れ、巫女さんたちが雅楽に合わせて舞いを演じていると、河村は何を勘違いしたのか、巫女の舞いが、昔大学時代に六本木でディスコに行って踊ったときの記憶がフラッシュバックされ、河村はすぐさま巫女さんが踊っている舞台に上がって、巫女さんたちの側に行き、ディスコなる踊りをしてしまったのである。

当然、すぐさま警備員は血相を変えて必死の思いで止めに入ったという話を聞き、私は何十年振りかに涙を流しながら大笑いをしていた。

(人間というのは、何年経っても変わらないなあ。)

と、月日が経っても良き友の大切さを痛感していた。

―― 豪快快活 ――

この言葉が、本当によく似合う良き友であった。

※本記事は、2017年12月刊行の書籍『女子硬式野球物語 サクラ咲ク2 旅の果てに』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。