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―― 河村一郎。

富山県立桜井高校出身で、甲子園を目指し、野球部ではサードで4番のスラッガー。

数学が得意で、当時の旺文社の全国模試では、数学は全国トップクラスの成績を残し、東京六大学の私立大学に合格するも、授業料が高く家庭の経済的な理由で断念し、当時、格安の授業料(年間9万6千円)であった千葉商科大学に入学。その後も4年間は9万6千円を支払うのみとなり、次の学年からは倍々に増加し、結局一番安い授業料の最後の学年となっていたのである。

この大学のキャンパスで私は河村一郎と出逢ったのである。

河村と私は高校時代野球部であったので、本来なら当時明治神宮大会に出場するくらいの強い野球部に入り、野球を続けていこうと思っていた。しかし自分たちの育った高校野球感覚とは違った大学野球感覚があり、当時、マイナーな競技ではあったが全日本大会で連続優勝していた日本伝拳法道部の門を二人は叩いていた。

二人とも高校時代の野球部の練習が今までで一番きつかったと思っていた。なにせ崇徳高校では新入部員が100人入っても最後に残ったのは10人という状況だったのである。

しかし、それはとんでもなく大きな間違いであった。

いくつかの例をあげると、大学から東京の靖国神社まで道着を着て裸足で、ずっと声を出しながら、往復60キロメートルを走り、大学に到着したときは、皆の顔に汗が塩の白い結晶となってきれいに残っていた。

また、毎年の日本各地で春・夏の強化合宿では、あるとき台風の襲来した中でもハードなサーキットトレーニング、さらに基本突き、蹴りそれぞれ1000本を、気合いを入れて繰り返し、繰り返し行っていた。高校野球で苦しんだ練習をはるかに凌駕していた。

(競技はマイナーだが、やっていることは超メジャーだなあ。)

と、毎年の合宿に耐え、今までの自分とは違う自分を感じて、ふるさとの広島へ帰る乗り物の中で思っていた。

そんな激しい練習を終え、しばしば河村の住んでいるアパートに寄り、寝食を共にしながら若き日の人生論、恋愛論や野球論を熱く語っていた。

お互い貧乏学生だったため、実家からの仕送りのお金が底をつくと二人で、近所のスーパーマーケットに行き、何気なく試食用の食べ物をつまようじで刺して食べていた。なけなしの小銭を出し合って、ワンパック5円のミニ納豆を買い込み、河村の実家から送られてきた富山産のコシヒカリに納豆をかけて数日間過ごしたこともあった。その間は、やたらとおならが出て、音の出し合いをし、おならの充満した部屋でまたまた青春論を戦わせていたのである。

また、まったくおかずが買えないときは、残り少ないマヨネーズをチューブからしぼり出し、温かいご飯にかけて、さらにその上にのりたまのふりかけをかけて食べたことがある。

「うまい、富山のお米は最高だね」

と言い、私はあまりの美味しさにお代わりを3杯したが、食べ終わったあと胸がむかつきトイレで吐くなどの醜態を演じていた。

このように親しくなった河村のふるさとである富山県・黒部市宇奈月に、大学1年生の時に行くことになったのである。

大学の後期試験が終了した2月、上野発の急行夜行列車で、普通の座席に座って、真夜中の碓氷峠を越え、二人はいつものように青春を語りながら日本海を目指していた。

翌朝まだ辺りは暗い中、河村の妹さんが長靴を履いて威風堂々たる体格で迎えに来て、車に乗って河村の自宅に到着した。

雪国らしく、積雪があってもびくともしないがっちりした重量感のある家構えで、大雪のときには2階から出入りするくらいに雪が深いとのことであった。

ご家族にご挨拶をしたのち、生まれて初めてのスキーをしに、近くの宇奈月スキー場に向かった。何もかも初めての体験で、スキーのリフトは怖く、河村の妹さんにスキーを教えてもらったがボーゲンまでが精一杯であった。私が滑って転げている脇で河村は、驚きのプロ級の滑りをしていた。

翌日も、河村からスキーに誘われたが、膝から下が激しく筋肉痛になり、その日は雪国の寒さに負け、一日中布団の中に猫のようになって丸くなって寝ていた。

夕食時間になっても脛の痛みが引かず、2階で分厚い布団の中で横になっていた私に、

「おい、濱本、夕飯の支度ができたから降りてこんかあ」

と、標準語ではない富山弁寄りの河村の肉声が聞こえた。

1階へ降りて行くと掘りごたつのテーブルには、日本の漁場の宝庫で天然のいけすとも言われている、富山湾で今朝捕れたばかりの新鮮な「寒ブリ」のお刺身が出されていた。

「いただきます」

と口に運んだ瞬間、

「なじゃこりゃあ。ぶりうまい」

と言ってしまった。「何ですか、その言葉は」という河村の家族に、

「すいません。広島弁では、ぶりというのは『とても』、『大変』という意味なんです」

と言葉の説明をしていた。

また、食事をしながら家族の方々とお話をするのだが、特に河村の祖父母との会話はまったく通じることができず、河村に通訳をしてもらい、ここは日本であって日本ではなく、外国に来ている感覚があった。

数日間の滞在中、雪の金沢・兼六園などを見学し、ようやく富山弁が分かるようになって私のふるさと広島に帰省した。

その後も、何度か富山県を訪れた際、当時、河村の母校桜井高校野球部監督の返田(へんだ)さんの経営しているお店に行き、野球談義となった。

「私自身は甲子園に出られませんでしたが、この春私の母校、崇徳高校はセンバツ大会に初出場し、日本一になりました。やり方次第ではここの桜井高校も行けると思いますよ」

と、またもや若気のいたりで熱弁を振るい、大風呂敷を広げていた。

返田監督に会ったときに、公立高校が甲子園に出ることに対する意欲に欠ける雰囲気を感じていたので、敢えて、自分自身の体験から「やればできる」という意識だけは伝えておきたかった。

※本記事は、2017年12月刊行の書籍『女子硬式野球物語 サクラ咲ク2 旅の果てに』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。