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広島カープのセリーグ初優勝に26年、昨年は25年ぶりの優勝と、優勝するのに四半世紀近くもかかることに、優勝の重みを感じる。そして今年、37年ぶりのセリーグ連覇を成し遂げV8を達成した

昨年、この広島カープの久々の優勝の年にドラフト4位で入団した捕手、船越涼太がいる。この船越涼太の妹、千紘(ちひろ)が当時平成国際大学女子硬式野球部2年生で兄と同じ捕手を守り、その年韓国・釜山で行われた女子野球ワールドカップの日本代表選手として正捕手となる。決勝戦、攻守共に大活躍をし、日本の5連覇に大きく貢献する姿を私は現地で見ることができた。

この年の9月のワールドカップ期間中は、日本チームに帯同し、広島カープセリーグ優勝、翌日、名将・大倉孝一監督(現駒沢大学野球部監督)の指導で日本の女子野球が前人未踏の5連覇を成し遂げ、感極まる気持ちで釜山のホテル前にある砂浜に立っていた。

しばらく、海岸線を眺めながら、陸側には高層のビルが林立していた。ふと、

(地震が起きたときの耐震性は大丈夫なのかな?)

と心配になる。

そして、ホテル近くのコンビニでハンバーガーを買い、腰を下ろし砂地に足をつけ、ゆっくりとハンバーガーを食べていると、1羽のハトが現れた。私は1切れのハンバーガーのパンをハトの方に放り投げた。すると、さらに続いて3羽のハトが現れる。仕方なくその3羽にも1切れずつ与えると、瞬く間に30羽近くが集まってきてしまったので、その場を離れ、波打ち際にゆっくり歩み寄り海を眺めていた。

(平和だな……。)

翌日、日本チーム5連覇という輝かしい結果を胸に納め、日本に向かって釜山空港を飛び立った。

無事、羽田空港に到着した後、ワールドカップを開催していた釜山で、韓国ではめずらしい震度5を観測する大きな地震が発生したことが報じられていた。釜山市内の混乱の様子がテレビニュースで伝えられた。

―― もし、これに遭遇していたら、ワールドカップはどうなっていたのだろう。

ふと、2011(平成23)年3月11日の東日本大震災のことが頭を過(よぎ)る。

複雑な思いを抱き、埼玉の自宅に帰宅した。

思えば、私の故郷広島に原爆が投下され、廃墟となった広島市民に生きる勇気と希望を与える目的で作られた球団が、広島カープであった。

私はその本拠地、広島市民球場近くの原爆投下後の跡地に建てられたバラック街に幼いときから住んでいた。昭和30年代の頃にはまだ、夏の夜、自宅前に流れる水路にホタルが美しく舞っていた。

小学校は原爆ドーム前にあった本川(ほんかわ)小学校に通い、帰宅する前に、よく原爆ドームによじ登って遊んでいたものである。現在は世界遺産になっているので、今だったらおそらく大変なことになり、お叱りを受けていただろう。

原爆投下の目印になったTの字に架かった相生橋(あいおいばし)を渡り、毎日、小学校に通っていた。

通った通学路は水の都広島市内を流れる太田川の土手で、その土手づたいに木造のバラック街が建ち並び、「相生通(あいおいどお)り」と名付けられていた。

通学路での思い出がある。登校中、私の自宅のすぐ隣の後輩二人が、相生橋手前の商工会議所ビルの横で遊んでいて、

「おい、なにをしとるんじゃ、早(はよ)う学校に行かんと遅刻するぞ」

と、広島弁で先輩風を吹かせながら、注意をしていた。

そして、昼休み前の4時間目の体育の授業が終わり、教室に戻ろうとしたとき、校内が騒がしくなっていた。

「何があったんじゃろう」

「男の子が屋上から落ちて、今、記念病院(本川小学校前にある病院)に運ばれたんよ」

と、同級生の女の子が私に教えてくれた。

その男の子とは、今朝、学校に行かないと遅刻すると注意をした一人だった。

その子は遅刻をして、4階建ての小学校の校舎の屋上に行き、鉄のフェンスを跳び越えて、フェンス向こうに以前置いてあった漫画本を取ろうとした。ところがそのフェンスは錆びていて、フェンスは倒れ、そのままコンクリートの2階渡り廊下に落下してしまう。頭を強く打ち、亡くなったのである。たしか小学5年生だったと思う。

その際、地元の新聞社の取材に対して、屋上に入る際の扉には鍵がかかっていて、屋上には入れないはずだと当時の学校は言っていたが、そうではなくて以前から開いていたのを知っていた私は、

「先生、あそこ、前から開いていましたよ」

と、しゃべってしまい、

「そんなことをしゃべってはいけません」

と叱られた記憶がある。

子どもながら責任の所在を明らかにするのは大変なんだと思っていた。

その通っていた本川小学校から相生橋を渡って左手には、広島市民球場があった。

ナイターの試合中にはいつも、球場の照明塔のカクテル光線が、ホタルが放つ光のようにぼんやりと夜空を照らし出していた。その姿は、幼い頃に映画館で観たドーム型のUFOの着陸シーンのようでもあった。

広島カープが試合で得点が入るたびに、

「わぁー」

という大歓声が市民球場から夜空を突き破り、大宇宙に響き渡っているのをよく自宅の窓越しで聞き入っていた

そんな身近にある広島カープの影響で、周りの子どもたちの多くが野球を楽しんでおり、私も近所のお兄さんからキャッチボールを教えられ、野球人生が始まったのである。

さらに広島カープは1979(昭和54)年11月、日本シリーズで対近鉄戦において球史に残る「江夏の21球」があった。私は就職した埼玉栄高校の野球部のコーチ時代に、大学時代に住んでいた下宿先から持ち運んだ白黒テレビの前で正座をして、最後のバッターを江夏投手が三振に討ち取り、初の日本一に輝いたのを観た。

優勝した瞬間。

大学時代にヨーロッパ・アジアを貧乏旅行したときに、いつか広島カープが日本一になったら乾杯をしたいと思い、ブランデーの「ナポレオン」を土産に購入して白黒テレビの横にずっと置いていたのを思い出した。

「いよいよ、日本一の美酒を飲もう」

栓を開け、とくとくとブランデーをブランデーグラスがなかったので、普通のガラスコップに注ぎ、一人で、

「おめでとう広島カープ! 日本一! 乾杯!」

と、男泣きをしながら、泣き虫ハマーになっていた。

「母校、崇徳(そうとく)高校も日本一、広島カープも日本一、これで野球に関しては思い残すことはない。自分の野球人生に一区切りがついたなあ」

と古びた白黒テレビの画面でカープの選手が歓喜しているのを見ながら考えていた。

広島カープの初優勝から約40年後の2016(平成28年)9月10日。

広島カープが25年ぶりのセリーグの7度目の優勝を飾った。

カープの初めての優勝の瞬間を見たのは、1975(昭和50)年10月15日に大学時代の同じ釜の飯を食べた拳法道部の河村一郎の貸家の一室であった。

河村宅の一室で、テレビの前で正座をして観ていた。あと一人で優勝が決まる。

最後のバッターは巨人の柴田選手。レフトフライを放ち、広島カープ水谷選手が捕球した瞬間は今でも鮮明に覚えている。

カープが苦節26年にしてやっとの思いで優勝できた瞬間であった。

河村は大の巨人ファンであったため、この時、憮然とした表情をしていた。

※本記事は、2017年12月刊行の書籍『女子硬式野球物語 サクラ咲ク2 旅の果てに』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。