人質は「三億円の田んぼ」……。
世界一の日本酒をめぐり、渦巻く黒い思惑。
『田に毒をまいた。残りの山田錦が惜しかったら、五百万円用意しろ』。
烏丸酒造に届いた一通の脅迫状。見れば一本百万円を超える純米大吟醸酒の元となる田の一角が枯らされていた。捜査の過程で浮上する、杜氏の死にまつわる事件の疑惑。そして、脅迫犯が突きつける、前代未聞の要求とは――。
酔(よ)みすぎご注意。 ふくよかに味わい深い、発酵醸造ミステリーを連載にてお届けします。
「油は?」
男が、一斗缶を持ち上げた。太白ごま油である。原価が、半端ではない。
「このたこ焼き、儲かってるんですか?」
「ぜんぜん。でも、うまいじゃろ」
葉子は、深くうなずいた。
「よかったら、また食べに来てや」
大男は、言ってから、すぐに何かを思い出し。
「と、言っても。ここは今日までやった。おおきに」
葉子が、屋台を離れると同時に、子供らが戻ってきた。あれで、人気があるらしい。
「タコのたこ焼きぃ。うっまくねぇ~」
「こらぁっ」
歩き去りながらも、しばらく、背中にやりとりが聞こえた。
ラジオのニュースも、途切れ途切れに聞こえる。烏丸酒造の田んぼの身代金は、ニュースになっていないらしい。脱法ライス中毒で、倒れた大学生が死んだと、事件を報じている。
そのとき、五平餅屋の客が誰か、思い出した。烏丸酒造に文句を言いに来た農家だ。確か、名前は松原。
見ると、まだ五平餅を食べている。
葉子は、ふっと視線を感じて、振り向いた。離れた木の陰から、さっきの女性がこっちを見ていた。花柄のワンピースを着た、三十代半ばくらいの美人。手入れの行き届いた長い髪、にこにこと笑っている。葉子と目が合うと、軽く会釈した。葉子も、会釈を返す。たこ焼き屋と話をしているときから、見られていたらしい。
確か、東京の有名な酒販店の店主だったと、葉子は少し歩いてから思い出した。
※本記事は、2020年10月刊行の書籍『山田錦の身代金』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。
【主な登場人物】
山田葉子:日本酒と食のジャーナリスト
矢沢タミ子:居酒屋経営者
矢沢トオル:タミ子の息子
葛城玲子:播磨署警察官 警視
高橋 仁:同 警部補
勝木道男:同 捜査一課課長
烏丸(からすま)秀造:『 天狼星(てんろうせい)』醸造元 烏丸酒造 蔵元
烏丸六五郎(むつごろう):同 先代蔵元
多田康一:同 前杜氏(とうじ) 故人
大野 真:同 副杜氏
佐藤まりえ:同 賄い担当
速水克彦:同 新杜氏
富井田哲夫:県庁農林水産振興課課長
松原拓郎:農家
松原文子:拓郎の妹 農家
桜井博志(さくらいひろし):『獺祭(だっさい)』醸造元 旭(あさひ)酒造会長
甲斐今日子:酒屋
黒木 将:酒屋
ワカタ ヒデヨシ:元プロサッカー選手、日本酒プロモーター
スティーブン・ヘイワード:有機認証機関検査官