「なかなかこんちはお暑くなりましたですね」
訪問の段取りを菊川町役場(現菊川市)の山田東一さんがつけてくださったので話はすぐ環の話題に入った。

「私は加茂村の帯金から嫁いでまいりまして、登波さまは私の伯母になります」
いとさんは明治三十八年の生まれで、永田橘次郎さんに嫁いだ。筆者が訪問したときは七十六歳であった。

「伯母さまは柴田に一度嫁いで離婚してずっとここの永田を名乗っておりました。その時、環さんも伯母さまと一緒にこちらへ貰い受けたんですが、柴田の名前を無くすのは辛いでって、そのまま柴田環でした」

登波は明治九年に下朝比奈村(現御前崎市)の柴田熊太郎に嫁ぎ十四年に二人は上京して芝や京橋に住み、十七年に環が生まれた。しかし明治二十八年に登波は熊太郎と協議離婚をしている。

「環の本には登波さんは男まさりだとありますが」
「男まさりといいますが何をやりましてもそれこそお上手で環さまを育てるには一本腕で育てたとそう申しました。籍は柴田ですけれど自分が貰い受けて修業させたと。環さんもお出来になったもんですから女学校から月謝など何もいらなかった。一を聞けば十を知る、そういうふうでした。伯母さまも昔の方にしては字もお上手にお書きになる。男親という方が筆子をおいて教えていらっしゃったくらいですから」

男親とは、登波の父太郎八を指している。太郎八は天保三年に生まれて大正五年に没している。その時八十四歳であった。

「どこに寺小屋があったんですか」
「ここでやったらしゅうございますね」
「登波さんが夫の熊太郎さんについて上京するとき、こちらの実家から借りたお金を返さなかったことも離婚の原因だったようですが」

熊太郎は創立まもない明治法律学校への入学にさいし太郎八から資金援助を受けている。

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『新版 考証 三浦環』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。