これはかなわないと杉井は思った。部屋中に聞こえるような声で言ったはずなのにと思いつつ、学校の応援団長並みの大声で、

「杉井二等兵、酒保に行ってきます」

と繰り返して出て行った。戻ったら戻ったで、「杉井二等兵、酒保から帰りました」と怒鳴らないと部屋には入れてもらえない。杉井の部屋は、「酒保へ行ってきます」、「厠から帰りました」、「洗い場へ行ってきます」などの初年兵の怒鳴り声だらけとなり、喧騒を極めた。

皆が家族への手紙を書き終えたのを見計らって、また藤村が言った。

「これより靴の検査を行う。全員靴の裏を自分に向け、顔の高さまで上げよ」

杉井も言われたとおりにすると、営内のそこかしこにある馬糞を踏んづけたせいか、目の前にある靴の裏の匂いは強烈だった。

「舌を出せ」

意味するところは分からなかったが、指示に従うと、藤村は初年兵の後側に回り、一人一人の顔を靴に押しつけていった。杉井は生まれて初めて動物の糞というものをなめた。

その場で吐き出したら、またどんな新たな体罰がくるか不明であり、結局その味は自分の寝台に戻って手ぬぐいに吐くまで口の中に残った。靴の裏側まで磨くべきことは口頭で言ってもらっても十分改めるのに、これが軍隊式の教育かと杉井はその厳しさが身にしみた。

本来、この靴の裏側の手入れは、特に戦地に行ってからは極めて大切なことだった。靴の裏側が磨かれていないと靴の底が固くなって破損し、また鋲の根元が汚れていると腐って鋲が抜け、この結果、豆ができたり靴ずれができたりして破傷風を誘発し、行軍落伍者となる。

これを防止するために、靴の裏を磨くことを徹底するべくこの一種の体罰を加えるのであるが、そんなことは全く分からない杉井には、単なるいじめとしか感じようがなかった。

※本記事は、2019年1月刊行の書籍『地平線に─日中戦争の現実─』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。