献体が個人の奇特な心で行われている事は、学生たちの誰もが知っていた。教授、教官がいろいろと献体を集めるために、苦心している事は、うわさで知っていた。なにしろ、死後とはいえ、見も知らぬ若僧に頭も腹も、恥部さえも切り刻まれるのだ。自分がそのような立場になったら、と想像さえしたくなかった。

その厳粛な雰囲気の一方、僕には本当に今日はどこまで実習が進むのかどうか、が大きな問題だった。今日は説明と注意だけで帰れると予想していた自分は、かろうじて、テキストの数ページに目を通しただけだった。

「では頭の方から布をめくって下さい。」

ふいとも思える、教授の一言で、僕は我に返った。

厳罰を宣告されたかのように、テーブルを囲む4人は互いに息をのんで見つめあった。意を決して、全員でほぼ同時に布に手をのばして、その端を摘まんだ。

ゴム手袋越しに触れる綿布は、冷たく、わずかに濡れていた。
教授は頭の方からと言っていたが、どこがそうなのか分からないので、4人が一斉にゆっくりと少しだけ、布を持ち上げることになった。目の前が布地の白から一度に暗い世界に変わって、トンネルの中へいきなり飛び込んだように、一瞬眼がくらむようだった。

灰褐色の四肢と胴体、そして頭部がそこにあった。周囲のあちこちで、息を飲むような気配が感じられた。
遺体は、布の下から突然という印象で眼前に現れた。思わず一瞬身体がのけぞりそうになった。

そこには、人間というより土人形を思わせる姿があった。頭は丸刈りにされ、男女の判断がつけかねたが、胸のしぼんだ乳房が一瞬だけ目に飛び込んだ。

遺体は、仰向けなので、顔面も見えた。それは確かに人間の顔だった。目は閉じられ、睫毛(しょうもう)が屹立し、鼻、耳、口があった。頭部に毛髪も短くかられて、残存していた。少し、歯がのぞいて見えた、それはもう白くは無く、むしろ灰色だった。皮膚も、薄暗い実習室の光のもとでは、茶褐色か灰褐色に見えた。

僕の側は、足方だったので、いったん布を下ろした。自分の視界からは一時、遺体は隠れる事となった。その真際、陰部が寒々として見えた。頭部の側だった高尾と田上が、布を少しずつ足もとへ向けて、巻き上げてゆく。改めて全身が現れて来た。

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『正統解剖』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。