9月26日(土)

アランフェス協奏曲

13時半にあい子と二人で良子を訪ねた。

病室に入るなりバンザイをした。

「何、それ?」

私は黙ってもう一度バンザイした。

「死なんですんだ、いうの?」

「大変だったんだよ。帰ったらゆっくり話してやる」

「胃はきれいだったみたいや」

「それは聞いた」

昨夜、良子に内緒でA先生から聞いたことは、ほぼ全体を良子も承知しているようであった。

大腸にあるコブががんであることも分かっていた。昨日聞いた退院のこと、PET-CT検査の予約を取ること、30日の注腸検査その他、記入すべき書類を既に持っていた。

つまり、隠すものは何もなかった。

A先生は昨夜、説明のあとで、「以上のことは奥さまに話してもいいですか?」と私に確認した。私は、「先生からお話し下さい」と同意した。しかしそのときは既に、良子には話していた可能性が大きい。それとも昨夜、私への説明のあと、夜遅く、良子に話したのだろうか。今日先生は非番のはずだからである。

残された最大の懸案は、大腸以外のがんの存在である。

それはクリアされるとして、大腸がん手術の方法がある。開腹手術と内視鏡手術の選択である。その長所短所は、10月7日に詳細な説明があるのであろう。

「予定通り音楽会に行くよ」と良子に言った。良子は勿論承知した。

すみだトリフォニーホールで夕刻6時開演の、ファン・マヌエル・カニサレスというフラメンコ・ギタリストのコンサートがあった。“カニサレス・フラメンコ・カルテット”というもので、セカンド・ギター、男女各一人のダンサーがメンバーである。ダンサーは、カスタネット、カホン、パルマという民族楽器も奏する。

カルテットの演奏が前後にあって、中間に、カニサレスのソロで新日本フィルハーモニーと共演の、『アランフェス協奏曲』(作曲、ホアキン・ロドリーゴ)があった。私の眼目は『アランフェス協奏曲』であった。

盲目の作曲家ホアキン・ロドリーゴの『アランフェス協奏曲』は、50年以上前、レコードでよく聴いた。ギターはナルシソ・イエペスだったと思う。その後、第2楽章を、マイルス・デイヴィスがトランペットでやった。これも美しかった。

トリフォニーホールは盛況であった。最近の新日本フィルハーモニーの定期は、ダニエル・ハーディングのような特別の指揮者を除いて、これだけの聴衆を集められない。

演奏は楽しいものだった。私の心はとりあえず解放されていた。アランフェスの第2楽章はカニサレスと森明子さんのオーボエの掛け合いが、期待通りの美しさであった。

ただ普段の聴衆と若干異なるのは、私の前の夫婦は、身を乗り出して聴く。これはエチケット違反とされている。背もたれに背を付けて、鑑賞しなければならない。

この点に一番厳しいのは、私が知る範囲では歌舞伎座で、進行中でも場内整理員が近づいて注意する。私が動かすのは首の軸だけで、回転するのは首だけである。カメラについても、私の近くの白人女性がパチリとやったとき、すぐにそのカメラは取り上げられた。

私の横のオジサンはずっと体を振動させていたが、第3部ではついに、音は出さないが手拍子を始めた。しかし、前の夫婦といい、横のオジサンといい、私はさほど気にならなかった。フラメンコというものが、本来、おそらくは、劇場のものではないのである。

実に楽しいコンサートであった。

しかし状況が違っていれば、たとえ聴きに来たとしても、私は絶望の闇の中でカニサレスのギターを聴いたであろう。 

9月27日(日)

コオの見舞い

コオが見舞いに来た。

お母さんの入院は告げたが、見舞いには無理して来なくても良い、と言ってあった。コオは料理人で、仕事の時間が、病院の面会時間に合わないのである。それに良子の外観状態そのものはのんびりしていて、緊急なものは何もなかった。本を読み、テレビを見ているのである。

車中で、お母さんが「がん」であることを告げた。コオは黙っていた。

経過を説明した。第1段階のピンチは脱した、と言った。

「明日、一旦退院する」

病室に入ると、良子はコオを見て、笑顔を見せた。

コオも小さく、「よお」と言って、にこっとした。

そして改めて、ことの経過を私がコオに話した。

私たちは、良子も含めて、この10数日で「がん」という言葉に耐性ができていた。しかしコオにとっては重いものだったようである。黙っていた。

コオは良子の実子ではない。

私が大学時代、六つ年上の女に生ませた。その女にとっては災難のような出来事であった。

しかし結局、私のいい加減さを見限り、女は私から去った。

コオは、私の老父母と兄夫婦が育ててくれた。

良子は私の兄嫁の姪である。つまり、私の義姉が、良子の母親の妹である。

良子を一番気に入っていたのが母である。良子ちゃんのような子が来てくれたら、と言っていた。しかし私はなお、私を棄てた女への未練があった。つくづく女々しい、イヤな男であった。

コオもまた、良子になついていた。

あるとき良子が嫂に、「私がコオちゃんのお母さんになってあげようか」と言った。

良子は、子持ちの男と結婚する必要のない、若い、処女であった。

なぜそのような気持ちになったのか、私には分からない。

嫂はその言葉を逃さなかった。

まだ逃げた女を吹っ切れぬ私は、その話から逃げようとしたが、父母も、兄夫婦も、それを許さなかった。

コオは、強さはないが素直に育った。素直すぎるのが歯がゆいほど、穏やかな性格に育った。結局それは、良子に似たのだと思う。

『サライ』10月号の付録、「和食は京都にあり」が、良子の膝元にあった。

「これ、おいしそうやねえ」

と良子が、ある割烹店のページを開いて、言った。

「よし、それじゃ、お母さんの快気祝いはこの店でやろう。みんなで京都へ行こう」

コオもあい子も、そうしようと言った。

結婚して数年、おそらく10年近く、私は良子に優しい夫ではなかった。暴力を振るったことはないが、勝手で、冷たい男であった。あるとき、良子は言った。

「お父さんはしたいこと、何をしてもええよ。でも、私は絶対にお父さんと別れない」

私はどこかで、良子が辛抱切らして逃げ出してくれることを待っていた。このひと言で、私の目は覚めた。私は負けたのである。

良子を知る私の義兄は、「精神安定剤」と言った。良子ちゃんと一緒なら10年は命が伸びるだろう、と言った。良子は、無類の「安定」であった。

ただ一度を除いて、良子が、慌てたり取り乱したりするのを見たことがない。動揺というものがない。

一度というのは、私が、ある女性に心を寄せたときである。良子も知っている女であった。実際には彼女との間には何もなかった。手を握ったこともない。しかしその女性を見た私の目つきに、良子は逆上した。何もないと私が言っても、聞く耳を持たなかった。あの目つきは、何もない目でない、そう言って、皿を床へ叩きつけた。狂乱と言えた。

しかし実際のところ、それは良子の、凄い感覚であった。鈍感な女ではなかった。何もなかったのは、私が相手にされなかったからである。

※本記事は、2019年3月刊行の書籍『良子という女』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。