(四)

伝記において出生事項は必須のものであるから、口述筆記のとき吉本明光が出生当時の両親の状況を確認すべきであったろうが、転居の重なった環自身出生地の所番地まで記憶する必要を感じたか定かでなく、本籍地に重きを置いた当時であったことを思えば、「帝劇近くの二階家」の生まれ以外はどうでもよかったのかもしれない。

そこで調査の対象を父熊太郎に移して、彼が学んだ明治法律学校の足跡を辿ることした。特に環の手記中にある「明治大学の創めに母の里から三千五百円を持ち出して明治大学に貸した」とあり、その事実を知る必要があった。(※18)

熊太郎のこの母方への度重なる無心が登波との離縁の一因ともなった。(※19)

さて、文献調査に於て、図書館のレファレンス・サービスに負うことが情報収集上能率的で、しかも確実な方法であることを経験する。明治大学に在学する愚息を介して、二、三の環に関する文献抜刷を添付して明治大学附属図書館に関係資料調査を依頼した。

附属図書館は調査事項を明治大学歴史編纂資料室に照会し、同室より明治大学の前身明治法律学校に於ける熊太郎在学当時の関係諸資料及び、熊太郎寄付関係資料の回答に接した。(※20)(※21)

熊太郎の学んだ当時の明治法律学校は麹町区有楽町三丁目一番地にあり、この場所は旧島原藩の上屋敷で三楽舎と呼ばれ、ここを借家として授業が行われた。当時の卒業者名簿によれば、静岡県平民柴田熊太郎は明治十七年一月明治法律学校を卒業し、参事院御雇として東京府京橋区弓町二十三番地に居住していたことがわかる。(※22)(※23)

この年の二月熊太郎の卒業とほゞ時を同じくして環は出生している。彼は学校により近い弓町に、今入町から移転しており、この地で環が誕生したことになる。現在の銀座二丁目三番地内に該当する。

前述の参謀本部五千分の一東京実測図第五号「東京中部(皇域)」により弓町二十三番地の該当家屋を精査すると、南側の道路に面した西角から二軒目の裏手に庭をもった二階屋があることが確認される。(※24)

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『新版 考証 三浦環』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。