第二章 日本のジャンヌダルク

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【法隆寺(ほうりゅうじ)】

「じつは『日本書紀』にこんな記事があるんですわ。天智九年─西暦六七〇年のことやけど、法隆寺で火災が起こり、一屋も余(あま)さず焼けた。大雨が降り、雷鳴がとどろいた、と書かれてます。ここから再建・非再建の激しい論争がはじまりよったんですわ。

そやけど昭和十四年になって、この図面に書かれとるところで建物跡が見つかり、その建物跡に火災で焼けた痕跡が確認されました。これが決定的な証拠になって、再建論争は終わったというわけですわ」

「ふーん。それで決着がついたんですね」
まゆみがうなずきながらつぶやいたが、

「ところがそう簡単には決着はつきません。この発見のあと、金堂や五重塔も科学的に調査されたんやが、そこでまたとんでもないことがわかってきましてなあ」

「なんですか、とんでもないことって?」
まゆみが身を乗りだすようにして聞いた。

「焼けた伽藍(がらん)跡は、いまの法隆寺と区別するために若草伽藍(わかくさがらん)と名づけられましたが、それはいまの伽藍とは土地区画も方位角度もまるで違ちごうてることがわかりました。するとそこから、いまの法隆寺を建てたんは、若草伽藍を建てた集団とはまったく違う人たちだったんではないかという推理が出てくるわけです。さて、ここから話がややこしくなりますんで、よく聞いてくださいよ。