その後、三浦環顕彰会により三浦環賞が設定され、昭和四十二年三月マダムバタフライ世界コンクールが開催された折、そのプログラムの略年譜には一八八四年静岡県に生まれると日英両国語で紹介された。(※15)

環の出生地については以上のように混乱がみられるが、果たして特定しがたいものであろうか。出生地は本人がその時点で確認できる事項ではないので、戸籍簿等の文書によるか、近親者の伝聞に頼らざるを得ない。

環はその口述のなかで、帝劇の近所にあった二階建の家で生まれたとしている。帝劇創設の時期に活躍した環が帝劇を引き合いに出す心境は十分に納得できる。しかし、環が出生地とした、帝劇附近と常識的に考えられる丸の内や有楽町地域を当時の地図で精査してみても、彼女のいう民家の二階屋らしい建物はひとつとして見当たらない。

記憶には無意識の誤りがある。特に伝記には応々にして自己正当化ないし美化の心理がはたらく。また独断、偏見により記憶がゆがめられることもある。『遺稿』でも作意ではないかと思われる箇所があるので考証を要するのである。

歌手、特にオペラのプリマドンナともなれば、そのレパートリーは広い。プッチーニの歌劇「マダム・バタフライ」に例をとれば、リコルディ版で三六三ページあり、これを環は一日一〇ページずつ暗記したという。(※16)

並の才能で出来る業ではない。環が心の支柱として生涯敬愛したアデリーナ・パッティは、モーツァルト、ロッシーニ、ベッリーニ、ドニゼッティ、ヴェルディ、マイアベーア、グノーなどの歌劇を四十種も役柄で歌いわけたというほど、斯界での記憶力は絶対に必要なのである。(※17)

『遺稿』で語られる環の記憶力のよさには、驚くことがしばしばあるが、それでもこのように入舟町としたり、帝劇の近くとしたりする間違いもある。これは環自身見聞したものでないし、切実さを感じるものでもなかったろうから、責めるわけにはいかない。

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『新版 考証 三浦環』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。