9月17日(木)

出来事

出来事が多い。

10日 常総市において、鬼怒川の堤防決壊。

川内原発1号機営業運転開始

12日 良子入院

14日 阿蘇山噴火

16日 日本時間17日午前7時54分、チリ沖にてM8・3地震発生

18日 日本に津波が到達

19日 未明、新安保法案成立

良子は重湯の食事をしていた。

顔色は更に良くなっており、何もなかったかのようである。

今日は、曽野綾子さんの『私を変えた聖書の言葉』、同じくクライン孝子さんとの共著『なぜ日本人は成熟できないのか』を届けた。

NHKの『今日の料理』9月号が欲しいと言われた。

前に下の売店で買って渡しておいた『サライ』10月号付録に、京都の料亭の記事があった

「おいしそうやねえ」という。

「快気祝いは京都でやろう。お前が行きたい店に連れて行く。早く元気になってよ」

それにしても連休明けまでは何もすることがないのである。

「明日は1時から5時まで外出が許可されたから、家に帰る」

「それじゃボクは会社を休んで送り迎えする」と言った。

9月18日(金)

久しぶりの帰宅

午後1時5分に正面玄関へ迎えに行くと打ち合わせていた。

定刻に行くと良子は既に待っていて、手を上げた。

自宅まで車で10分の距離である。

「便利やねえ」

そして退院後の通院経路を検討した。バスは便利につながってはいないようである。2度乗り換えしなければならないと思われる。

良子は、自動車は勿論自転車にも乗れない。強い近視である。そして酒も一滴も飲めない。これは洋菓子にも厳重な用心を要するほどで、アルコールの入ったものを食べると顔は蒼白になり、苦しむ。酒に弱いというレベルでないのである。良子にとって、酒は正しく毒薬である。私の妻としてふさわしくないと言えるし、だからこそふさわしいとも言える。

家に帰って、まず、冷蔵庫の中のものを点検し、古くなったものを取り出した。

「ゴミ屋さんはまだ来ていない」

間に合う。それをゴミ集荷ケースに出してきた。少しの時間で、台所が随分きれいになった。段ボール箱に入った私の冬の下着類を出した。すべて新しい冬物の下着類が数セット入っていた。

それから外に出て、可愛がっている草花を点検した。ホトトギスが、咲き始めていた。良子も私も(というより良子の私への影響であるが)、草花が好きである。

それは日本のものに限る。そして“園芸”種は好まない。原種、もしくはそれに近いものが好きである。 菊も何種類かあるがすべて“野菊”の類いで、花は小さい。旅先の路傍で咲く野菊の一輪をつまんで帰り、培養したものが何種類かある。採取した場所に因んで、「鏡山」とか、「開聞」「八丈」とか、名付けている。これらはすべて道端にいっぱいあるもので、密かに生きているものではない。採取を許してほしいと思う。古里の「那賀川野菊」というのもあるが、これは園芸店より入手したものである。

しかし菊は、今年、まだ咲かない。

テレビで「賢島」の鮑を見た、と良子は言った。

「来年3月は賢島へ行こう」と私は言った。

私たちは伊勢へは何度も行っているが、何月に行ったか、漠然としか覚えていない。

そこで昨年、私の干支の午年だったが、毎年月をずらしてお伊勢参りしようと決めた。

つまり昨年は1月、今年は2月、来年は3月になる訳である。そして次の午年には1月に戻る。

来年は賢島と伊勢をセットにして、3泊か4泊の旅にしよう。

「おいしい鮑を食おう」と言った。

良子は今日予定があった。横浜市敬老特別乗車証(敬老パス)の更新が9月期限だそうで、その負担金を郵便局から振り込まなければならない。郵便局のお金の処理は16時までなので、3時40分に家を出た。

郵便局での手続きを終え、病院へ戻ったのは4時20分頃である。私は病室へ上がらず、正面玄関で良子を下ろした。

9月23日(水)

琴と三味線

“シルバーウィーク”といわれる連休であった。この連休は最終日を除いて、連日芝居見物することになっていた。それは勿論良子も承知のことである。

19日(土)、22日(火)は夜の部で、無理をして病院の面会許可時間に合わせられないことはないが慌ただしく、良子はそれなりに安定しているので、「来なくて良い」ということであった。

21日は夕刻良子を訪ねた。

「売店にあるカボチャプリンを食べても良いと言われた」と言った。

「動脈から採血された。普通、静脈やのに、どうしてかな?」と不思議そうであった。

私たち夫婦で完全に一致しているのは「食べ物」と「旅行」である。

それ以外はほとんど共通するものがない。

私の趣味は音楽鑑賞と芝居であるが、良子には余り興味がない。

良子が熱心なのは、お茶、お花、俳句、である。お茶は少人数ではあるがお弟子さんをとったこともある。しかし我が家までは坂道で、当時はバスもなく、高齢の生徒さんには不便であった。

M工業東京支社の華道部創設にかかわり、長い間指導していた。若い女性を指導する良子は生き生きとしていた。当時の支社長はその後社長となった。

私は、良子の点ててくれる茶をおいしいと思うし、花もきれいだと思う。俳句もなかなかのものである。しかし私自身にはそれらの素養がまったくない。

23日は家の周辺を整理した。夏の間に伸びたクズや草を可能な限り除去した。曇天で、作業には好都合であった。そして夕刻5時に、病院へ行った。

「今日は庭をきれいにしたよ」と報告した。

良子の顔色は更に良く、『私を変えた聖書の言葉』と『なぜ日本人は成熟できないのか』を、読み終えたから別なのを持ってきて、と私に返した。

芝居のことも尋ねた。「面白かったよ」と私は答えた。20日の昼の部で、『競(だてくらべ)伊勢物語』が、歌舞伎座では昭和40年以来という、つまり50年ぶりの上演があった。私が驚嘆したのは、死を覚悟した菊之助の信夫(しのぶ)が弾く琴に、そって鳴る三味線であった。

私には菊之助の琴が聞こえた。しかし場所によっては三味線だけしか聞こえなかったかもしれない。私もよく耳を澄まして、二つの楽器が協奏していることを確認したのである。菊之助は小さい音で弾いた。あれだけ距離があって、どうしてあのように一体の音が鳴るのだろう。三味線が、どうしてあのように琴の音色と音程で、弾けるのであろう。筋書を見ると、「三味線 鶴澤慎治」とある。

「今年もスダチがいっぱいなっている。今夜はカマスの塩焼きにスダチをたっぷりかけて食べるよ。早く帰ってよ」

「今日から五分粥になった」と良子は言った。

「五分粥というのは、ちゃんと米粒があるのよ」

私とあい子は、希望を持って病院をあとにした。

この部分は実際には9月23日に書き始めた。今は25日の午前である。昨24日夜、A先生より覚悟を促すような話があった。今は25日午前で、午後に、良子は胃の検査を受ける。夕刻にA先生より電話があり、そこで決まるのである。今の私にあるのは悲しみである。

※本記事は、2019年3月刊行の書籍『良子という女』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。