私の心臓は躍りだした。

先生はAという御自分の名札を見せた。若い先生だった。

A先生は低い声でゆっくりと話した。それが私の耳には聞き取りにくかったが、要は、

「腸閉塞は確実にあります」

「問題は腸閉塞が何を原因として起こっているか、です」

「一番考えられるのは“大腸がん”です」

ということだった。

「明日、内視鏡で腸内を検査します。腸を拡げ(何か腸管を拡げる器具を入れ)、便を出したあと、腸内を調べます」

病室に戻ると、良子は起き上がり、ベッドに腰掛けていた。

肩を落とした悄然とした姿だった。私は良子が、状況を直感していると感じた。

先生と何を話したか、あい子も私も説明しなかったし、良子も聞かなかった。とりとめない話をしたが、内容は憶えていない。テレビは、「安保法制」関係の報道であったと思う。

良子は横になった。

「お父さん」と良子が言った。

「お父さん、お母さんが呼んでるよ」とあい子が言った。

私は良子の口元に耳を近づけた。

「お父さん、お母さん幸せだった」

あなた、私は幸せでした、

私は言葉を返すことができず、良子から離れた。

(処置の夜 2015年9月14日)

夕刻6時25分に良子を訪ねた。

ベッドに横たわり点滴を受けていたが、眠ってはいなかった。

絶対安静の指示で、用便も看護師の手を煩わせていた。

腸を拡げて、そこへ金属製の器具を入れたという。その器具が徐々に膨らみ、閉塞した腸を拡げるという。その施術時、あとの拡大時に、腸壁を破くことがあるそうである。そのための「絶対安静」であった。

あとで調べてみると、これは、「大腸ステント」と呼ばれる筒状の網でできた医療器具で、網目は形状記憶合金でできているそうである。大腸内の閉塞箇所に装着された“ステント”は、自らの本来の形状を思い起こし、拡がる。大腸の閉塞が続くと、全身の状況が悪化し、腸が破裂して敗血症などで、命を失う恐れもあるという。

大腸の関係は私にはたっぷり経験があるので、想像できた。

もう10年近く前になるが大便検査で血液反応があり、詳細検査の結果、大腸に大量の“ポリープ”が見つかった。内視鏡による切除作業をしたのであるが、大きいものは、内視鏡で処理できる限界の大きさであった、とあとで言われた。実際に実物を見せてもらったが、確か20㎜くらいあった記憶がある。そのときは数があまりに多かったので、大きいものだけを“粗どり”して終えた。処置は最初は年に3度、それが2度になり、ここ5年ほどは毎年1度になっている。今年も12月17日に予定している。

最初の2度は麻酔なしでやった。

モニターに映る自分の“腸内”を、見たかったのである。

確かにこれは面白かったが、苦しいものであった。

痛いのでなく、苦しいのである。本来出すときに快感なのであるが、その逆に、空気を入れられるのである。子供時代、蛙の腹に空気を吹き込んだことがあったが、何というヒドイことをしたのか、ごめんねと言った。う、う、と声を出すと、ナースさんが手を握ってくれた。これは心地よいものであった。

3度目以降は麻酔をしてもらっている。楽である。

そんなことで、良子に、「麻酔、したんだろう?」と尋ねた。

麻酔はしなかったそうである。それは、ステント装着の際に腸壁を傷つけぬよう、微妙に体を動かす必要があり、意識がなければならないのであった。

「苦しかった」

と言った。おそろしく辛抱強い女である。余程苦しかったのであろう。私は経験者であるが、私のレベルを超えて、腸は膨らませられたのであろう。私は良子の額から頭を撫でた。

「ポリープがあると言っていた」

「ポリープか。ポリープならオレは専門家だ。大したことないよ」

本当に、“ポリープ”のレベルであることを、私は祈った。

帰りの車中で、

「今日は、A先生はいなかったね」

と私はあい子に言った。

「何の連絡もなかったなあ」

「連絡箇所は三つも書いておいたのに」

「緊急事態でなかったのかもね」

「看護師さんも、次の何の予定も聞いていない、というし」

「単なる“ポリープ”かな」

「そうだったら本当に嬉しいね! お母さんが帰ってきたら、思いっきり豪華な快気祝いをやろう」

「うん、そうしよう!」

(先生の説明 2015年9月15日)

会社を早く終えて、夕刻5時に病院へ行った。

あい子は会社に残り、私一人であった。

5時20分にA先生が来られた。ナースが良子の用便の世話をする間、私は部屋を出、先生は私を「面談室」に誘った。

パソコン画面に、良子の腸の内部が映し出された。

「ステントの装着は成功したと思います」と先生は言った。

「まだ拡がりますので油断はできませんが、大丈夫と思います」

「検体検査の結果を見なければ断言できませんが、まず大腸がんと思います。写真を見る限り、転移はなさそうです。リンパ腺はやられていると思います。手術の際はそれも取り除くことになります」

「ここに水が溜まっています。悪性のものでないと思いますが、性質によっては、話がまったく違ってきます」

「腸管破裂という間際のピンチは脱したと思います」

そして、奥さまにはまだ話さない方がいいでしょう、とおっしゃった。

24日に、あい子と一緒に再度、話を聞くことにした。

やはり、がんなのか!

良子ががんになるなどと、考えもしなかった。

どうして、何を根拠に、考えなかったのだろう。

人生、当然あり得ることが、どうして自分にだけはあり得ないと、人は安心して生きるのだろう。

当然のことが当然の確率で起きたのに、どうして衝撃を受けるのか。

10年、

それは願いが大きすぎるだろう。

5年、それも、ねだりすぎか。

3年!

せめて!

それを与えて下さるなら、この上なく優しい男を、良子よ、私はお前に見せる。

(ご縁……2015年9月16日)

「お母さんは、お医者さんの顔を見ると治っちゃうんだ」

とあい子が言った。

最初に行った「横浜市救急医療センター」でも、到着してみると割とけろっとした顔をしている。単にオナラが出ないということで、救急医には、その原因まで思いが及ばない。

次のO医院でも、先生には“便秘”くらいの認識しかできない。

その次の東邦大学病院でも、私は精密検査をしてもらいなさいと指示したのであるが、いざ先生の前に座ると体調は普段通りになり、検査も、もう大丈夫だからと本人が辞退したそうである。だからこそ先生の、「病院へは検査が必要なときだけいらっしゃい。そうでなければ近くのお医者さんの方がいいです」という言葉が出たのであろう。それにしてもどの先生も、触診によって異常を感知できなかったのであろうか。

結局、最初の救急病院搬送9月4日から、みなと赤十字病院入院の12日迄、8日間を浪費したことになる。そのために“シルバーウィーク”に引っかかり、検査も遅れている。

しかし、最初の9月4日にみなと赤十字病院へ行ったとして、元気を回復した良子を見て、先生は直ちにCTスキャンをはじめとした本格検査を実施したであろうか。8日間の経過を聞いたからこそ、その緊迫性を当直医は直感したのではないか。土曜日の夜にもかかわらず、緊急検査を実施してくれた。

更に翌日曜日、別件で救急病棟に来ていた消化器官専門医であるA先生を見た看護師さんが、「先生、ちょっと診てくれませんか」と頼んだそうである。それが翌日の“ステント”装着につながった。

「ご縁です」

と、A先生はあい子に言ったそうである。

いろんな経路の中で患者と医師はつながる。

東邦大学で検査を受けて、そのまま入院していれば、A先生とのつながりは生まれなかった。

それが良かったのか、そうでないのか、知る由もない。

「運命やわね」

と良子は言う。

この日、良子の顔色は随分良くなっていた。

私は、曽野綾子さんの『この世に恋して』を持って行った。

※本記事は、2019年3月刊行の書籍『良子という女』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。