母は「江戸わずらい」についても教えてくれました。

江戸時代、大名たちはまずい玄米を白米にすることを覚えました。白米はピカピカの銀シャリとしてたいへん喜ばれ、広く武士にも食されるようになったのです。

やがて、この銀シャリは町民にも伝わり、文化文政期には江戸の町民の間で大流行しました。すると、江戸の人々の足や顔がむくんで痛み、だるくなったのです。白米ばかりを食べ続けたことで、江戸の人々が「脚気」という病気におかされたのでした。そのため、旅人の間で「江戸に行くと江戸わずらいになる」と噂になったのです。

明治時代に入り、海軍省の医務局長であった高木兼寛氏は、当時軍隊内部で流行していた脚気を麦飯と洋式兵食によってしずめました。

その後、鈴木梅太郎氏が米ぬかから脚気を防ぐ有効成分を分離して、オリザニンと名づけたのはよく知られているところです。これがビタミンB1です。ですから、玄米を食べてさえいれば脚気は防げたのです。

このように、母の影響で、私の頭の片隅にはいつも玄米がありました。そう思うと、玄米スープとの出合いは必然だったのかもしれません。

玄米の栄養成分については世界の名だたる各学者がその功績やエピソードを多く残していますが、私がとても興味深く感じているエピソードがあります。それは当時の帝国陸軍の軍医部長であった森林太郎(のちの森鷗外)が帝国陸軍に多勢の兵隊を召集するための手段として、白米ご飯“銀シャリ”の大盤振る舞いを掲げました。

やがての日清戦争において陸軍では戦闘によって一二七〇人の死傷者をだしましたが、戦闘が原因ではなく脚気による死傷者数は四〇六四人にも達しました。一方白米を食さなかった海軍は脚気を罹ったものは皆無であったとの事。

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『喰い改めよ! あなたはあなたが食べたものでできている』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。