駅に着くと、既に他の入営者たちも集まってきており、そこかしこに黒山の人だかりができて、それぞれ万歳三唱を繰り返していた。駅で杉井を待ち受けていた人々は直ちに杉井の周りに輪を作った。

静商で担任だった大橋先生を始めとする恩師、親しかった友人とその父兄、茶の商売仲間などなど、自分のこれまでの人生はこれほどの人たちに囲まれてのものであったのかと杉井自身が驚くほどの人数であった。

順番にお礼の挨拶をしていきながら、杉井は佐知子の姿を探した。佐知子は何重にもなった輪の一番外の方で、左手に日の丸の小旗を握り締めながら、右手を大きく振っていた。杉井と目が合うと、振っている手を止めて、心持ち目を細めた。

杉井は、佐知子も自分が佐知子の姿を認めたことに気づいたであろうと感じると、視線を直ちに別に向けた。これだけ多数の人々に囲まれた中での佐知子に対するそれ以上のこだわりは、許されるものではないように思われたのである。

杉井たちがひととおりの挨拶を終了すると、矢崎町内会長の発声で、岩瀬と杉井のための万歳三唱が行われた。壮行もこれにて終了ということで、二人は改札口へ向かった。見送りの親戚、知人たちもあとをついてきた。

改札口を通ったところで、二人はもう一度振り返り、敬礼して感謝の意を表した。うす暗い通路を、見送ってくれている人々の視線を意識して、二人は胸を張って歩いた。

上りホームへの階段にさしかかったところで、岩瀬は杉井に向かって、

「それでは元気で」

と握手を求め、階段を上って行った。岩瀬の配属は、三島野戦重砲兵第三連隊であった。

入営の際には父親が付き添うのが通例であり、謙造も意気揚々と杉井に同行した。下りホームに立って汽車を待っていると、謙造は二十五年前に台湾の連隊に入営した時の思い出を懐かしそうに話しだした。

謙造の青春時代は、日清、日露の戦争を経て、日本が領土を拡張し、海外にその勢力を拡大していく最中であった。謙造にとって戦争で日本国の勝利と結びつかないものは考えられなかった。日本国の政策とは、日本国のそして日本国民の豊かさを実現するためのものであり、戦争はその最も有効な手段であるとも考えていた。

従って、自己の入営も謙造自身が初めて国家に直接的な貢献をする大イベントであったし、今また息子謙一を軍に提供することも、謙造に最大限の満足をもたらしてくれる出来事であった。妻たえが息子を送り出す時に浮かべた淋しそうな表情など感知の外にあったし、この半年の杉井の揺れる気持ちなど更に知る由もなかった。

汽車が着いて席に座ったあとも、謙造はご機嫌で話を続けた。汽車はゴトンと揺れたと思うと、名古屋に向けて走りだした。

安倍川の鉄橋にさしかかると、杉井の心の中は、いよいよ生まれ育った静岡の町を離れて新たな生活に入っていくという感傷が支配的となり、謙造の思い出話は、杉井の耳には、移り変わる車窓の背景の旋律となっていった。

※本記事は、2019年1月刊行の書籍『地平線に─日中戦争の現実─』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。