謎多き天才が残した一枚の絵画をめぐる、
超大作アート・ミステリー。
写真家の宗像は、偶然訪れたロンドンの画廊で、一枚の肖像画に心を奪われる。絵画の名は、夭折した謎多き天才画家ピエトロ・フェラーラの「緋色を背景にする女の肖像」。フェラーラの足跡を追い求めてたどり着いたポルトガルの地で、宗像は美術界を揺るがす秘密に迫っていた。美術界と建築界に燻るスキャンダル。その深部と絵の謎が交錯していく。アートに翻弄された人々の光と影を描き出す、壮大なミステリードラマを連載でお届けします。
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写真家という職業柄、宗像は一度会った人物の顔は忘れない習性を備えていた。以前のこと、四年続けてイスタンブールで撮影したことがあった。そのときに撮影した、街で出会った男たちに、その後の撮影で再び出会ったことが何度かあった。
それだけ鮮明に彼らの顔を記憶していたのである。撮影が終わるとまず現像をする。それから密着焼きで粗い選定をしてキャビネに引き伸ばす。さらに絞込んだものを四つ切に引き伸ばし、ルーペで確認しながら最終作品を作るのが通常のやり方だった。
印画紙を替え、フィルターを替え、焼き込み具合を変える。そのたびに、食い入るように写真を観察しながら調子を整える。だから、たとえそこに登場する人々が見知らぬ人であったとしても、その表情は深い記憶として網膜に焼き付けられているのだった。
今回はその網膜に靄がかかっていた。しかし、宗像の冷徹な観察眼はもう一つ別の印象を受けたことも思い出していた。エリザベスの明るく快活なしぐさの裏に……そう、確信というほどのものではないのだが、なんとなく淡い影の存在を感じていたのだった。
遅れてサービスされた大きいオリーブのピクルスを噛み砕き、良く冷えたマティーニを飲み干すと、オリーブの塩気までもが甘く感じられた。メリハリのあるさっぱりとした液体が火照った身体に流れ込むと、それは一瞬のうちに全身に染み渡っていく。
こうして宗像の頭の片隅にひとたび住み付いたエリザベスの淡い影は、アルコールの影響もあって、次第に大きく、そして濃い影へと変化して行くのだった。
「今日はどこに行かれましたか?」
バーテンダーが愛想笑いを浮かべて話し掛けた。
「ビンテージ二十年にはとても感激しました」
「それはようございました。こちらでは昼間召し上がる甘いワインも良いですが、夜のドライな白ワインが、また素敵でございますよ。今晩は確かレストラン・ボア・ノヴァでございましたね。それなら魚と白ですね、羨ましい」
【登場人物】
宗像 俊介:主人公、写真家、芸術全般に造詣が深い。一九五五年生まれ、46歳
磯原 錬三:世界的に著名な建築家一九二九年生、72歳
心地 顕:ロンドンで活躍する美術評論家、宗像とは大学の同級生、46歳
ピエトロ・フェラーラ:ミステリアスな“緋色を背景にする女の肖像”の絵を26点描き残し夭折したイタリアの天才画家。一九三四年生まれ
アンナ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラーの妻、絵のモデルになった絶世の美人。一九三七年生まれ、64歳
ユーラ・フェラーラ:ピエトロ・フェラーラの娘、7歳の時サルデーニャで亡くなる。一九六三年生まれ
ミッシェル・アンドレ:イギリス美術評論界の長老評論家。一九二七年生まれ、74歳
コジモ・エステ:《エステ画廊》社長、急死した《ロイド財団》会長の親友。一九三一年生まれ、70歳
エドワード・ヴォーン:コジモの親友で《ロイド財団》の会長。一九三〇年生まれ、71歳
エリザベス・ヴォーン:同右娘、グラフィックデザイナー。一九六五年生まれ、36歳
ヴィクトワール・ルッシュ:大財閥の会長、ルッシュ現代美術館の創設者。一九二六年生まれ、75歳
ピーター・オーター:ルッシュ現代美術館設計コンペ一等当選建築家。一九三四年生まれ、67歳
ソフィー・オーター:ピーター・オーターの妻、アイリーンの母。
アイリーン・レガット:ピーター・オーターの娘、ニューヨークの建築家ウィリアム・レガットの妻。38歳
ウィリアム・レガット:ニューヨークでAURを主催する建築家。一九五八年生まれ、43歳
メリー・モーニントン:ナショナルギャラリー美術資料専門委員。一九六六年生まれ、35歳
A・ハウエル:リスボンに住む女流画家
蒼井 哉:本郷の骨董店《蟄居堂》の店主
ミン夫人:ハンブルグに住む大富豪
イーゴール・ソレモフ:競売でフェラーラの絵を落札したバーゼルの謎の美術商