歩き出していた秀造が、足を止め、首だけ振り返った。
「!」
困惑しているが、視線は険しい。苛立ちを、隠そうともしなかった。

だが、タミ子も負けてはいない。有無を言わさぬ勢いで、質問を投げかけて来た。

「秀造さん、もう一つだけ、教えておくれ。大事なことだ。多田杜氏がタンクに落ちたのは、何時だって? 正確なところが知りたい」

その剣幕に、秀造も渋々黙り込んだ。人差し指をこめかみにあて、ちょっと考え込む。少しして、唇を舐めてから、一言一言区切るように言葉を発した。

「確か、死亡推定時刻が、前の晩の八時から九時です。落ちたのも、そのころでしょう」

タミ子が、深く静かにうなずいた。何かの推論が、当たっていたらしい。

「だとすると、杜氏は事故で亡くなったんじゃないね」
「事故じゃない? どういう意味ですか?」

怪訝そうに眉をひそめる秀造の顔を見つめ、タミ子は一呼吸置いた。きらりと目を光らせると、厳かな口調で言葉を継ぐ。

「殺されたんだよ」
「なんですって?」
「多田杜氏は、タンクに落ちたんじゃない。殺されたんだ」

鬼気迫る目をし、タミ子は言葉を繰り返した。何故か、揺ら揺らしている。そして、皆が聞き入っているのを確認して、静かに付け加えた。

「死んでから、タンクに放り込まれたのさ」
「?!」

呆気にとられ、皆が黙りこんだ。それを前に、タミ子は一人、ゆっくりとうなずき続けている。

「おい、おっかあ、大丈夫かよ。いきなり、ワケわかんないこと言い出して。皆さん、迷惑してんだろ」
トオルを無視し、タミ子は大きな声で言い放った。

「証拠が、ある」

「えっ?」

タミ子は、もろみ温度の記録紙を指し示した。

「いいかい。ここには、タンクの中のもろみの温度が記録してある。最後の一日分だよ。多田杜氏が見つかった朝、止まったままだ。つまり、前の日の朝から、遺体が引き上げられるまで」

タミ子は、記録紙に引かれた赤い線を、指でなぞった。緩やかな多少の揺れはあるものの、ほぼ真っ直ぐ水平だ。

「この通り、大きな温度の変化はない。杜氏が亡くなったのは、前夜の八時過ぎ」
タミ子が、記録紙の升目を数え、やがて一か所を指差した。
「このころだね。この時間の前後、ほとんどもろみの温度変化はない。ずっと五度のままだ」

葉子にも、タミ子が言わんとすることが、ようやく飲み込めた。
「ひと一人落ちたら。もろみの温度が、上がらないはずがないですね」

「その通りだよ。ヨーコさん。いくらもろみタンクが大きくても、生きたまま人が落ちたら、体温でもろみ温度が上がるだろ」

「なんてこった」秀造が、うめいた。

「つまり、多田杜氏は、冷たくなってからタンクの中に?」

「そう、杜氏は殺されて、冷たい死体になってから、タンクに投げ込まれたのさ」
タミ子が、目を凄(すご)ませてうなずく。

葉子は、冷たい手で背筋を撫でられた気がして、ぶるりと身を震わせた。

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『山田錦の身代金』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。