第一部 生涯と事蹟

第一章 生いたち

一 戸籍

日本人演奏家の海外活動が盛んであるが、外国の権威ある音楽辞典に永らく名をとどめる演奏家は、未だ多しといえない。その中で現在も光り輝いている人にマダム・バタフライのプリマドンナとして知られる三浦環がいる。(1)

大正二年(一九一三年)、環は静岡県小笠郡曽我村原川一七番地(現掛川市)において、医学士三浦政太郎と紆余曲折の末、華燭の典を挙げた。三浦環の誕生である。環には、三浦環のほか父の戸籍による柴田環、軍医藤井善一との婚姻による藤井環と三つの姓名がある。

環は、静岡県城東郡下朝比奈村一五五番地(現御前崎市)に本籍をもつ柴田熊太郎(一八五四~一九二六)を父とし、同県小笠郡六郷村小沢三六番地(現菊川市)本籍の永田トワ(一八五八~一九四五)を母として、明治十七年(一八八四年)二月二十二日東京府で生まれた。

現存する戸籍の原本にあっては、環の出生事項はこれ以上確認することはできない。(※1)

環の除籍簿は、現在全国四ヶ所の役所に保管されている。父熊太郎の本籍地静岡県御前崎市役所、熊太郎の上京の後、籍を定めた東京都港区役所、環の最初の夫藤井善一の本籍地山口県美弥市厚保出張所そして三浦政太郎の本籍地静岡県掛川市役所である。

私は、かつて前記四役所に請求、送付された環の謄本を、いま手元に所有している。(※2)

昭和四十九年夏の一日、掛川市役所の窓口を訪れ、環研究の来意を告げ、環関係戸籍簿の関覧を許された。小笠郡原田村役場上西之谷の自大正十四年(一九二五年)至昭和九年(一九三四年)分の部厚い綴込み戸籍簿に三浦夫妻の記載があった。

三浦政太郎は、明治十二年(一八七九年)五月二十二日三浦藤平(一八四五~一九三三)の長男として出生した。

「昭和四年拾壱月弐拾日午前壱時拾五分東京府豊多摩郡渋谷町宮代壱番地日本赤十字病院ニ於テ死亡戸主三浦藤平届出昭和五年四月八日受付㊞」とあり、親族数名記載に続いて、長男政太郎妻環の記載がみられる。

三浦環、大正弐年九月弐拾八日東京市芝区西久保桜川町四番地戸主平民公証人孟甫長女婚姻届仝日受付入籍㊞昭和四年拾壱月弐拾日夫政太郎死亡ニ因り婚姻解消助役㊞

亡三浦藤平弐男三浦猛(一八八六~一九四一)を戸主とする除籍簿には、環を亡兄の姉と記載した文字を削除、妻と訂正している。

掛川市原川拾七番地と訂正された亡三浦猛弐男三浦孝一(一九二六~二〇一一)戸主の戸籍簿には伯父妻として環の記載がみられる。ここには、婚姻事項に続いて、「昭和四年拾壱月弐拾日夫政太郎死亡㊞」とあり婚姻解消の文字はない。続く記載事項は次の通りである。

昭和弐拾壱年五月弐拾六日午前五時弐拾分東京都本郷区富士町壱番地東京帝国大学医学部附属医院ニ於テ死亡同居者井上元佶届出仝日参拾壱日受付㊞

本戸籍は、昭和三十二年法務省令第二十七号により改製され、昭和三十八年十二月十日新戸籍編製のため消除された。

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『新版 考証 三浦環』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。