外科医を目指したきっかけ

「次の患者さんは……」

と細山が次にいこうとしたところで、宮岡が質問をした。

「その患者さん、熱はある? 呼吸音はどう?」
「熱はないし、呼吸音も普段と変わらないよ」
「一回採血したほうがいいんじゃないのか?」
「ターミナルの人に苦痛を与えたくないから検査はしないと先週のカンファレンスで話し合って決めたんだ。宮岡も聞いていただろ?」

確かにそうだった。僕も聞いていた。

「いや、でも急に呼吸状態が悪くなって、意識状態も悪くなったのなら何か起こっている可能性だってある」

この日の宮岡は妙に細山に突っかかっていった。僕たち3人は週に1回飲みに行くくらい仲が良かった。

「全部の症状を癌の影響と決めつけるのはよくないと思う」

癌末期では急に呼吸状態も悪くなるし意識状態も悪くなる。それほど珍しい経過でもなかった。

宮岡はいつでも物腰が柔らかく、思慮深い人間だ。それなのにこの時は頑なだった。

「おれは患者に苦痛を与えたくない。検査をしたからといって何ができるっていうんだ?」

細山も黙ってはいなかった。

「意識がない人に採血するのがどれだけ苦痛だっていうんだよ。状態が悪くなったらその原因を探すのが医者の仕事だろう」

この時、僕は完全に傍観者であったが、どちらの言い分も正しいと思った。しかし、この患者さんに治療の余地はない。癌が治ることはないのだ。

しかし、確かに原因を探すのが医者の仕事だ。それでも今回は細山に軍配が上がるだろう。

「原因が見つかったら苦しい治療を行うのか?」
「肺炎だったらどうする?」
「治療しない。苦しみを取り除くことに専念する」
「肺炎が見つかったとして、抗生剤の点滴をするのは患者さんにとって苦しいことなのか? それで肺炎が良くなったら患者さんは楽になるかもしれないだろう」

なるほど。あっという間に形勢逆転する。細山は真面目に患者さんのことを考えていたからこそ、宮岡は仲の良い細山に対しても強い口調で意見を言ったのだ。

「宮岡、本当に助かった。ありがとう」

2ヶ月後、細山は宮岡に感謝していた。あのカンファレンス後、例の患者さんの採血をしたところ、炎症反応が出ていることが判明した。