哲学と神

哲学とは物事を根本原理から統一的に把握・理解しようとする学問であるということが一般的認識です。辞書にもそのように解説されています。

然るに、哲学の大家と言われる人たちの哲学説の中には、この認識から逸脱し、果たしてこれで哲学と言えるのか、と首を傾げざるをえない哲学説が少なからずあります。なぜなら、哲学説の中に説明のつかない「わからないもの」を埋め込み一つの哲学説の完成を見ているからです。「わからないもの」とは「神」のことです。

神については、その属性を我々人間は「全知全能にして完全な系」と定義しています。哲学者が自身にも「わからない」部分にこの便利な「神」を埋め込み哲学説というジグソウパズルを完成することの意味することは、哲学説全体を「わからないもの」あるいは哲学的に「無価値な」ものにしていることよりほかのことではありません。

神の全知全能性と完全性を哲学者はその哲学説の中に採用することはできません。なぜなら、そのような哲学説は、言ってみれば、「わからないこと」は全て神におまかせ、と言っていることと同じことになるからです。

哲学とは物事を根本原理から統一的に把握・理解しようとする学問であるところ、根本原理は「神」であるということで済ますのであれば、哲学は不用です。

理性は万能ではありません。科学も又万能ではありません。全知全能性や完全性に比べれば取るに足りないレベルにありますが、そうだと言って、我々は知性や科学の限界があるいは可能性がどの程度の所にあるものか未だ知りません。

従って、神を持ち出し、千万語を並べてその全知全能性と完全性をいくら確認しても讃美しても、それはただそれだけのことで、「わからないこと」は神におまかせというのでは哲学者の名に値しないことになります。

「今現在、わからないこと」はそのまま受け取り、その状態に耐えることです。人類終焉の時までわからなくとも、それはそれで仕方がないと腹を括らなければなりません。我々は幾ら卑小であろうとも、その卑小に頼るよりほかの選択肢はありません。超越者について考えることができるのも何かができるのも、卑小なる自己の肯定が大前提として存在していなければならないからです。

重要なことは、我々が愚かを自覚し愚かを去り賢きに就きさえすれば、我々は卑小であることにそれ程絶望する必要はないということです。

我々は生まれながらに自由であり、幸福を喜び希望する存在です。神に比して卑小なる知性や科学であるといえども、幸福であるためにする努力に用いるに決して不足があるわけではありません。さらに、我々は人間原理宇宙論の言うように、「我々人間は生命と矛盾しない物理的条件の中に存在している」という所与に恵まれてもいます。

このような意味において、我々の前途は希望と栄光に満ちているということができます。栄光の未来は我々の手中にあります。神の手の中にあるのではありません。

なお、哲学説の中に「神」が埋め込まれている哲学説を唱えている哲学者には、①デカルト、②パスカル、③スピノザ、④ライプニッツ、⑤バークリー、⑥カント、⑦フリードリヒ・シェリングなどの多くの哲学者が含まれています。このことにつきましては、「第5章B神・宗教、哲学等に関わるエッセイ集」に改めて記述してあります。

※本記事は、2020年9月刊行の書籍『神からの自立』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。