「秀造さん、確か速水杜氏って、燗酒向きの純米酒が得意でしたよね」
トオルの地声は大きく、座敷の中によく響いた。

「うちの店でも、鳥取で速水杜氏が醸した酒、扱ったことがある。熱燗にすると、妖しい色気が出てうまかったっけ。ひょっとして、天狼星の燗酒が出るんですか?」

「トオルさん、別銘柄で売り出します。タンク一本だけ仕込む、燗酒向きの純米酒。酒販店も別です」

「なんで、そんな面倒くさいことを?」
桜井会長が、訝(いぶか)しげな表情で首を捻った。

「速水杜氏は、熱心なファンが多いんです。消費者にも、酒販店にも。杜氏が勤める蔵の酒について回る、追っかけですね。でも、天狼星の酒質と違いすぎるんで。このことは、どうかご内密に」

頭を掻いて苦笑した秀造、唇に指を立てて見せた。

「しかし、かなりな人気で、何年か先まで順番待ちしてる蔵もあると聞きました。よく来てくれましたね」
「それが、たまたま今季の酒造りは、空いていたという話で……」

秀造は、途中で言葉を飲み込んだ。形のいい眉をひそめて、黙り込む。

「何か、気になることでも?」

「実は、契約した後で聞いた話があって。奈良の酒蔵に行く約束を、断って来たらしいのです。違約金を払ったとか」
「よその酒蔵を断って、ここに?」

秀造が、思案深げに、ゆっくりとうなずいた。
「うちとしては、ありがたい話なんですが。先方に、申し訳が立たない。また、そうまでして来る理由も、わからない」

「こちらの酒造りに、興味があったんでは? ものすごく酒造技術に、貪欲だとか。技術泥棒という噂もある。勤めた酒蔵の技術を、根こそぎ取って、身に着けてるって。会って、話を聞いてみたいなあ。もう、いらしてるんですか?」

「はい、今日は休みを取ってますが、明日は出てきます。桜井会長、どうでしょう。今夜泊まっていかれませんか? ワカタさんもいますから、夕飯もご一緒に」

「それは、ありがたい。よろしいですか、お言葉に甘えても」
「どうぞ、どうぞ。楽しみにしててくダッサイ」
「あっ、ダッサイ取られた。烏丸さんも、駄洒落を言うんですなあ」
桜井会長が、意外そうに微笑んだ。

「洒落って、酒っていう字が、つくじゃない。やっぱり、日本酒と切っても切れない縁なんだよね」
トオルが、ちょっとはしゃいでいる。それを見て、タミ子が顔をしかめた。

「だから、あんたは馬鹿だっていうんだよ。洒落の洒は、サンズイに西。酉じゃないの。あんたそのものだよ、一本足りないってね」

「え~っ、マジかよ。そういうことは、もっと早くに教えろよ。皆の前で、恥かいただろ」
「いつものことだろ、あんたの恥は。今さら、何言ってんだい」

ふくれっ面のトオルを見て、タミ子が楽しそうに笑った。

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『山田錦の身代金』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。