幼少期、すでに「納屋」を与えられた宮神

第一章 道 程

【1】

自室の床に仰向けになって、静かに目を閉じていた。学校から帰ってからもう一時間以上、ここにこうしている。開け放った窓から秋の西日が差し込んで、自分の周囲を照らしている。目を開ければ、窓の外には真っ青に澄み渡った秋の空と、真っ赤に色づいた庭の紅葉のコントラストが見えるはずだ。

宮神の家は代々この地域の農家を取りまとめる村の長だった。曾祖父は算術に長けて、若い頃から米づくりよりは商売にその才能を発揮した人だった。

明治中期まではこの地で採れた米は県内で消費されるのが大部分で、一割ほどが諏訪や松本に売られるだけだった。主要産業は生糸で、富士川を使って駿河湾まで運ぶか、馬背で一日半をかけて八王子まで運んでいた。

それが明治三十五年に六年の歳月と約二百万人の人員を要した笹子トンネルが開通、翌年に中央線の甲府〜新宿間が開通すると、この地の物流に大変革がおきる。曾祖父はこれに商機を見出し、この辺りで採れた米を一手に買い上げて甲府駅まで運び、そこから東京に向けて出荷したのだった。

いわゆる米どころといわれる地域とは規模が違うため大量生産とはいかないが、南アルプスを源流とするきれいな水と、寒暖差の大きな気候が育む甘みのある米は評判が良く、高値で取引されたという。

当時、宮神の家には大きな蔵があり、地域で採れた米が備蓄されていた。蔵は富と成功のシンボルで、村のランドマークでもあった。だが、高度成長期にその蔵は取り壊され、二階建ての納屋に改築された。一階はガレージ、二階は物置として使われていたが、宮神が小学三年生になった時に二階が改装され、宮神の部屋になった。

宮神には三つ年上の兄がおり、それまでは母屋の子ども部屋を共有で使っていた。宮神が納屋を与えられたのは、兄が中学に進学し「勉強部屋」が必要になったからではなかろうか。その兄も三年前に東京の大学に進学して、今はいない。宮神は兄のかつての勉強部屋と納屋の自室の両方を占有するようになった。

着替えや勉強机やベッドは母屋にあるが、ひとりになりたいときには納屋の自室にこもる。納屋は昔ながらの分厚い土壁で、外は風があって肌寒く感じるが、建物の中は暖かい。時折、カラスの鳴く声と車の走る音が遠くに聞こえた。前の通りを走る車の音だから、本当はもっと近くに聞こえてもいい距離だ。だが、土壁は外の雑音を遮断する。音は窓から入り込んでくるだけだ。

こういうのを本当の静寂というのだと、宮神は考える。窓を完全に閉め切れば、文字どおりの無音になる。だが、無音になると耳の奥には耳鳴りが聞こえる。無音と静寂とは違うのだということを、宮神は子どもの頃から知っていた。

宮神は子どもの頃から、納屋で考えごとをするのが好きだった。内向的な性格だったわけでは決してない。むしろ、近所の仲間を引き連れて裏山を駆けずり回る、元気で活発な子どもだった。

学校でも地域でも、周囲の子どもたちが宮神を放っておかなかった。放課後に帰宅すると肩掛け鞄を自宅の玄関先に放り投げ、友人と遊ぶために我先にと自転車に乗って宮神の家に集合する。

「よし、今日は芳ヶ岳でアケビを食おう!」

「みんな、川でザリガニを捕まえるぞ!」

その日、何をするかを決めるのは、たいてい宮神だった。野山を駆け回る笑い声や奇声が絶えないガキ大将とその仲間たち、と周囲の大人たちは思っていたはずだ。

だが、宮神にはそんな子どもの時分から、人知れず孤独を愛する一面があった。裏山にある秘密の場所(仲間にも絶対に教えなかった)へ行って、ひとりただ座って考えごとをするのだ。

※本記事は、2019年10月刊行の書籍『AMBITION 2050』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。