第二話 香港遠征物語

 

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11月30日──。

ついにクリニック最終日を迎えた。この日は月曜日ということもあって、香港の選手たちは学校や仕事を終えてからの練習開始となっていた。

午後7時30分。香港市内にある学校のグラウンドに選手たちは集まった。

グラウンドといっても、都心の学校によく見られるように一面にゴムが敷き詰められた小さな校庭だったため、硬式ボールを使った練習は不可能だった。校庭の奥には階段の設えられた高台があり、その先には5メートルほどもある大きな孔子(こうし)像がそびえ立っている。

天空にはまん丸い大きな月が照っている。

学校のグラウンドということで本格的な照明設備があるわけではない。月明かりと簡単な照明設備だけが選手たちを照らし出していた。

そのため、ここでは、バドミントンのシャトルや新聞紙を丸めてガムテープを巻いた手作りボールを使っての練習となった。このボールもまた、前夜にホテルの自室で日本人選手たちがみんなで一個一個手作りしたものだった。

シャトルを使ったトスバッティングでは、選手たちの丁寧なスイングが繰り返された。野球のボールよりも小さなシャトルの芯を打ち抜くために香港の選手たちは暗闇の中で、必死にシャトルの核を見つめていた。

新聞紙で作ったボールを使ってのトスバッティングはユニークなものだった。

二つのボールを一度にトスをして、トスする方が「上!」とか「下!」と指示を出すと、それに応じて打者は瞬時にいわれたボールを打つという練習で、これは香港選手たちの関心を引いた。

さらに、ボールに任意のアルファベットを書き込み、打者に見られないように投げてバッターはそれを打ちながら、ボールに書かれた文字を当てるという練習もあった。

この練習の手本を務めたのは高島だった。私はサインペンでボールにアルファベットを書き込み、高島目がけてトスを投げた。

高島は、スイングをしながら「H!」と叫ぶと、その打球は暗闇の中を、力強く飛んで行った。香港の選手がそれを拾いに行く。そして、満面の笑顔で叫んだ。

「H!」

その瞬間、校庭中が大歓声に包まれた。

私が「H」と書いたのには、理由があった。

それは、香港の「H」、そして、広島の「H」であり、平成国際大学の「H」、花咲徳栄高校の「H」。さらには、HAPPY(幸福)とHOPE(希望)の「H」。もちろん、濱本の「H」でもあった。

暗い場所でも、狭い場所でもできる数々の練習方法は、香港の選手たちに好評を持って迎えられた。初めて体験するゲーム感覚の練習は、彼女たちを夢中にさせた。

クリニック3日目を迎えて、お互いに気心の知れた間柄になりつつあった。言葉での意思疎通もままならないのに、「野球」という共通言語を通じて、そして、白いボールを通じて心と心を通じ合わせることのできる、このスポーツならではの魅力がそこにはあった。

ポジション別に分かれての最終講習では、バッテリーは野口、寺部、高島が担当し、内野は田上、内田、兼子が、外野は林、須藤、大井が、それぞれ熱心に指導に当たった。

講習初日の反省を踏まえて高島は、自分と同じキャッチャーであるヴィヴィアンに対して、身振り手振りを交えてスローイングの指導を行っていた。送球の際に踏み出す左足のつま先の角度について、高島は自信を持ってヴィヴィアンに伝えている。

それまでぎこちなかったヴィヴィアンのスローイングが、高島の指導によって、見違えるようにキャッチャーらしいものに変わる。

──自分が野球を始めた頃も、こんな感じだったのかな……。

貪欲に知識を吸収しようとしている香港の選手たちの姿を見ていて、高島は自身が野球を始めた頃のこと、初めてキャッチャーになり、スローイングに試行錯誤をしていた頃のことを思い出していた。

 

 

午後7時30分から始まった最終日の講習も、そろそろ終わりの時間が近づいてきていた。この校庭は午後10時までには完全撤収をしなければならない。時計の針はすでに9時30分を過ぎていた。

私は、全選手に向かって声をかけた。散り散りに練習を続けていた選手たちが集まってくる。全員を見渡すようにして私は口を開いた。

「……えーっ、そろそろ終わりの時間が近づいてきました。3日間という短い期間でした。すべてを伝えることはできませんでしたが、私たちにできることはすべてやらせていただきました。特に、核心となる部分はお伝えしました。ぜひ、香港チームがさらなる飛躍をすることを願っております。また、お会いできることを楽しみにしています」

そこまで語ると、私は全員の表情を改めて見つめ直した。

「ぜひ、また会いましょう! 本当に今回はどうもありがとうございました!」

一同から盛大な拍手が沸き起こった。

香港の選手たちは、自らのカバンに駆け寄り、そこからめいめいが手紙を取り出して、日本の選手たちに手渡した。さっそく封を開くと、そこには、拙(つたな)い日本語で、

「ありがとうございます」

という文字が目に飛び込んでくる。

日本と香港、それぞれの選手がデジタルカメラを取り出し、即席の撮影会が始まった。ある者は固い握手を交わし、ある者は緊張した面持ちで同じフレームに収まり、何回も何回もシャッターが押され、そのたびにフラッシュの閃光(せんこう)が闇夜に放たれた。

別れのひとときはなかなか終わりそうになかった。小さな輪ができては、また新たな輪ができ、やがて輪と輪が重なり合うようにして、より大きな輪となっていった。

その光景を、私は離れたところで見ていた。

そして、校庭の隅の高台にある大きな孔子像に目をやった。世界四大聖人の一人に向かって私は思った。

──どうやら私たちの「思い」は伝わったようです……。

誰にいうともなく、私は熱い思いを噛みしめていた。

その目は、熱いもので潤んでいる。

──これでは、やっぱり泣き虫ハマーだな……。

けれども、その涙を見た者は、やはりこの場では誰もいなかった──。

 

 

翌12月半ば──。

香港のキティから、私宛に1通の感謝状が届いた。そこには、今回のクリニックが香港の選手たちにとって、いかに意味がある出来事だったのかということ、そして、日本からわざわざやってきてくれた選手たちに対する謝辞が述べられてあった。

香港を旅立つ際に、私はキティと約束を交わしていた。

「今回の件だけで終わってしまっては、せっかくのクリニックの効果も半減してしまいます。ぜひ近いうちに再び香港にやってきます!」

香港から届いた感謝状を手にしながら、私は考えていた。

──これは近いうちに、改めて香港に行かないといけないな……。

さらに、年が明けた翌2010年2月──。

香港から1本の電話が入った。

それは、2月上旬に開催された国際親善大会で香港チームは台湾チームを破り、見事3位に輝いたという知らせだった。

私の脳裏には、あの香港での薄暮の中での試合の光景が蘇ってきていた。

太陽と月とが共存するあの美しい光景こそ、日本と香港の女子球児の交流の象徴的なシーンだったのではないだろうか?

──やっぱり、すぐにでも香港に行く準備をしなくちゃいけないな……。そうだ、春休みを使って行けばいいのかな……。

私は手帳を取り出して、スケジュールの確認を始めていた──。

※本記事は、2017年2月刊行の書籍『女子硬式野球物語 サクラ咲ク1』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。