座敷に座るなり、桜井会長が頭を下げた。

「烏丸さん。創業四百年、おめでとうございます。それから、多田杜氏のこと。遅ればせながら、お悔やみ申し上げます」

「その節は、丁寧なご挨拶を、ありがとうございました」
秀造が、深々と頭を下げる。桜井会長も同様に身体を折り、低く頭を下げた。

「ニューヨークに出張中でお弔いに伺えず、もう半年近くになりますか?」
「杜氏は、昨日の四百周年祭を、半年前から楽しみにしてたのですが」

しばらく、亡くなった杜氏の思い出話が続いた。一段落した後、桜井会長が遠慮深げに尋ねる。

「もろみタンクに落ちて亡くなられたと、聞きましたが?」
秀造が、無言でうなずいた。

日本酒発酵中のもろみタンク内は、酵母のアルコール発酵で出る炭酸ガスでいっぱいだ。酸素はゼロ。そこに落ちれば窒息して、まず助からない。

二十一世紀に入っても、全国で毎年一人か二人は事故に遭う。酒造り作業から切り離せない危険。日本酒製造業の最も大きな課題とも言える。

米の糖分をアルコールに変える微生物、酵母は発酵するとき、炭酸ガスも生み出す。空気よりも重い炭酸ガスは、もろみタンク中の空気を追い出して、中に溜まるのだ。

「昨季の造り、最後のもろみでした」

事故が起きたのは、六月初旬。

一人で仕込み蔵に来た杜氏が、もろみタンクに落ちた。その後、出社して来ない杜氏を、蔵人たちが探し、タンクの底で冷たくなっているのを発見している。

「甑倒(こしきだおし)後のことでした。間もなく造りが終わるというときです。魔が差したとしか、思えません」

米の蒸しが終わり、甑を片付けるのが、甑倒しだ。

最後の蒸し米を蒸し上げ、もろみタンクに投入すると、酒造りの辛い重労働が終了する。甑倒しは、 事実上の酒造りの終了にあたる。

昔は、甑を倒すと、出稼ぎの杜氏は、地元の北国へと帰って行った。

「今年の酒造りが、終わることは、永遠にありません」
「それは、寂しすぎる」

桜井会長にとっても、他人事ではないのだろう。自分のことのように悲しみ、悔しがっているのが伝 わってきた。

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『山田錦の身代金』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。