「うちの田んぼは、用水でつながってんだ。そっちにまかれたもんは、当然こっちにも来るだろうが。あんたんとこは、自業自得だろう。だが、巻き添え食うこっちは、大迷惑なんだよぉ」

吠えまくる男は、目がイッている。涎(よだれ)も、少し垂らしているようだ。
しきりに頭を下げる秀造の横に、どこからともなく老紳士が現れた。

大きな口髭を、たくわえている。よく手入れされた髭の先端は、クルリと反り返っていた。背が低く、樽のような体型。だが、動作は機敏だ。若い大男に近づくと、その手に、スッと茶封筒を握らせた。

太っちょが、黙って受け取る。厚みを確かめ、ニンマリと笑った。

ちょうど、そこへ、自転車が走り込んで来た。蔵人たちが、慌てて道を開ける。運転しているのは、よく陽に灼けた小柄な女性。大男に、自転車を横付けした。

「兄ちゃん、何やってるの。恥ずかしいったらありゃしない。やめてちょうだい」

若い娘が、男を叱りつけた。その場に、自転車を横倒しにすると、秀造に向かって頭を下げる。

「烏丸さん、すみません。ただでさえ、大変なところなのに。兄にはよぉく言い聞かせて、二度とさせませんから」

しきりに頭を下げる姿は敏捷で、動きはしなやか。兄も妹に頭が上がらないらしい。一緒に、頭を下げさせられている。

秀造が渋々うなずくと、妹は礼を言って、兄の尻を叩いた。すぐに自転車で、走り出して行く。兄も、ぶらぶらと後から続き、小橋を渡って去って行った。

蔵人たちも、三々五々仕事へと戻って行く。
いつの間にか、口髭の老紳士は姿を消し、影も形も見えなかった。

気づくと、見知った顔が広場を横切っている。元プロサッカー選手のワカタヒデヨシである。

「ワカタさーん」

葉子が、手を振ると、ワカタが滑らかに身体を捻った。手を振り返してくれる。グラウンドで、ファンに手を振るように。そして、停めてある車に乗り込むと、走り出して行った。アルファロメオのスポーツクーペ、最新型だ。

ワカタは、サッカーを引退した後、日本酒のプロモートをしている。様々なイベントを企画開催し、葉子は何回もイベントでお世話になっていた。

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『山田錦の身代金』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。