インドでの水には注意をすることを知っていたので、ホテルではコーラでノドを潤した私は、散歩をしようとホテルの玄関を出た。

そのときであった。

突然、日本の学校で使用する机の大きさぐらいの板にコロを備え付けたものに、胡座(あぐら)をかいて両手で地面を押して、私の眼前に20数名の集団が集まってきたのである。

気温は35度、おそらく地面は40度以上の熱さであったろう。

その集団は、年齢は10歳から18歳くらいの子どもたちで、胡座をかいた足は栄養失調で私の腕ぐらいの細さで、目はくぼみ、あばら骨がくっきりとむき出しにあらわになっていた。そして、その集団は私に向かって物乞いをする仕草をしばらく続けたのであった。

──なんだこの光景は……しかし、目は澄んでいる……食べ物に飢えてはいるが……日本の同世代の子どもたちよりも目は澄んでいる。

インドに入る前に、貧しい人たちに物やお金をあげてはいけないということを聞いていたので、何もあげることができず、その場を去り、近辺の散策に向かった。

それでもこの集団の数人がずっとついてきて、度重なる物乞いを私の前で繰り返す。私は何もできない自分に罪悪感をこころに持ちながら、振り切ってはいけない子どもたちを仕方なく目を合わせずその場を去った。

豪華なホテルの周りはバラック立ての集落が存在し、この国の貧しさを感じながら街の通りを歩いていると、多くの人通りの中で白い服を着た50歳くらいのキリスト教のシスターと思われる女性とすれ違い、思わず声を掛けてみた。

「あのー、日本の方ですか」

と私が尋ねると、

「そうです。珍しいですね。こんなところで日本の方にお会いするとは」

と返答してくれた。

お話を聞くと、現地でボランティア活動を兼ねた仕事をしているとのことであった。しばしの会話のあと、彼女が知的障害者の施設で働いているので、よかったら案内しますといわれ、その施設に向かった。

途中、普通の家屋の庇(ひさし)の下に日傘が1本、タンスのような家具が一つ、そして8歳前後の男の子、その妹がおり、シスターの彼女から、

「これが、家なんです。

この兄妹の両親は離婚して、今日は仕事でいませんが、お父さんが面倒を見ているの。インドは雨期と乾期があって住む家がない人たちは、お金持ちの家の庇の下で雨宿りをしたり、日陰で暮らすために移動するんですよ」

となぜか笑顔で説明していた。

──何だこれは……当然、学校にも通ってないんだ……。

しばらく歩いて知的障害者の施設にたどり着いた。施設を案内され、帰りにはこの施設の子どもたちが旋盤を使って作成した小さな木製のインド象をプレゼントされた。

私はこのお返しとして、持っていたわずかながらの日本円(500円)をこの施設に寄付をした。

するとシスターが、

「助かります。インドでは1日17円あれば生活できます。これは大金なんです」

といわれ、先ほどの物乞いをされた集団に何もできなかったことへの罪悪感から少し解放されていた。

このときのインド象は私の机上に今もあり、辛いことがあったときにこのインド象を見つめることで耐えることができたのである。

インド・ボンベイからやっと日本に帰国できるものと思っていたが、残念ながら日本行きのフライトはなく、もう一回他国に立ち寄ってからでの帰国となった。

そしてまたしても予定にはなかった香港に一時立ち寄ることになった、というわけだ。

香港到着後、すぐさまいつものように散策に出かけ、さまざまな観光スポットで写真撮影を行った。

そのときに撮った写真を片手に、今回同じ場所である船着き場で、同じポーズで撮った記念写真は傑作であった。

さらに、私は高校時代に投手をしていたが、肩を故障し、大学での野球は断念していた。

そういった時期に、私はたまたま香港の格闘家であるブルース・リー主演の『燃えよ!ドラゴン』を広島の映画館で初恋の人と初めてデートに誘い観ることになる。

この映画を観た私はブルース・リーの大ファンとなり、その後も一人で7回も映画館に足を運び、とうとう大学ではブルース・リーの影響を受けて拳法部に入部し、大学3年時には大学時代に成し遂げたい夢の一つである全日本大会で個人・団体組手で運よく日本一に輝いたのである。

青春時代ブルース・リーの強い影響を受けた私は、今回ブルース・リーの銅像と感無量で謁見する。

『Don’t think. Feel.』

『考えるな 感じろ……』

──女子硬式野球は今後間違いなく発展する、感じろ……。

大学時代にブルース・リーからパワーをいただき、そして再度33年ぶりにさらなるパワーをブルース・リーの銅像からもらった私はさらに元気になっていた。

※本記事は、2017年2月刊行の書籍『女子硬式野球物語 サクラ咲ク1』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。