全日本代表選手として数々の実績を誇る高島知美もまた、自身にとって新たな発見を携えた上で2日目の講習に臨んでいた。

前日のキャッチャーフライの練習のときのことだった。

足元がおぼつかない選手に対して、高島はいった。

「自分より後ろに飛んだ打球に対しては、早めに体を回転させて着地点に入った方がいいですよ。そして、ボールを捕るときには身体の正面で!」

それを聞いていたキャッチャーのヴィヴィアンはすかさず聞いた。

「身体の正面ということはわかったんですけど、ミットの位置は〝正面〟といっても、顔の前なのか、それとも胸の前なんですか?」

一瞬、高島は言葉に詰まった。確かに「正面」といっても、その高さはさまざまだ。日頃、打球の勢いやボールのスピンの強弱によって、顔の前で捕ったり、胸の前で捕ったり、ごく自然に行っていたプレーだったが、このとき、初めて、

「無意識のプレーを言語化して説明する」

という難しさを痛感した。

──人に何かを教えるというのは、楽しい半面、とても怖いことでもあるんだな……。

私は、「教えることの難しさを知ることが、今後の高島の成長に大きく役に立つだろう」

と香港に出発する前に考えていた。

まさに、この瞬間こそ、高島がさらなる成長を遂げるための第一歩だったのかもしれない。

さらに目を見張らされたのが、5人の日本人高校生たちだった。

初日は積極的に話しかけることができずに、ただ聞かれたことだけを答えていた選手たちが、この日は、身振りを交え、時には香港の選手たちの身体に触れながら指導をするようになっていた。

特にキャッチャーの内田は物怖じしない性格なのか、香港の選手たちに向かって積極的に英語で話しかけている。身体能力が抜群で、どんなプレーをしていても俊敏ですぐに目立つ内田のプレーは言葉を越える説得力を持っていた。

香港の選手たちが感嘆の声を上げながら、その一挙手一投足に注目している様子は何度も見られた。そのたびに内田は香港の選手たちとハイタッチを交わして、場の盛り上げ役を任じていた。

明らかに初日よりも活気が生まれ、密度の濃い練習空間がそこには生まれていた。私のテンションも上がる。時折、冗談を交えながら大げさな身振り手振りを交えて、積極的に香港の選手たちの中に飛び込んでいく。

すると、選手たちに笑顔が生まれ、すぐに真剣な表情に変わると、再びボールに向かってプレーを続けていく

日本と香港、両チームの選手たちの、幸せそうで楽しそうな笑顔。それを見つめている私は、充実感と満足感を覚えていた。

 

6

 

クリニック2日目を終えた夜──。

香港の選手たちの主催による懇親会が開かれた。

火鍋(ひなべ)の専門店の一室には大きな円卓がいくつも並べられ、それぞれのテーブルに両チームの選手たちが座った。次々と運ばれてくる料理を食べながら、両チームの関係者たちは、ある者はビールを、ある者はコーラやジュースを片手に親睦を深めていた。

2日目を終えて手応えを感じていた私は上機嫌だった。近くに座っていた香港の選手たちに次々と話しかけた。

それは、それまでグラウンド上のユニフォーム姿でしか接していなかった彼女たちの、普段の生活が少しずつ垣間見えてくる瞬間だった。

日本人選手たちから「ヒーさん」と呼ばれていた香港の選手がいた。

このとき、26歳だったクウォ・ヒン・パンシー選手は、昼間は弁護士として働いているということが、このときの会話からわかった。

キャッチャーだった彼女は、この日、なかなかキャッチャーフライを捕球することができずに、何度もノッカーだった私に、

「もう一回、もう一回」

と捕球できるまで執拗(しつよう)に迫っていた。

その真剣なまなざしに応えるように私は上空の暗闇目がけて、何度もキャッチャーフライを放った。

弁護士として、昼間はどういう仕事をしているのかは正確にはわからない。けれども、それが相当の責任を伴う激務であるということは容易に想像がつく。

そうした「日常」を終えたあとに、ユニフォームを持ちミットを携えてグラウンドに現れる彼女にとって「野球」というスポーツはどういう意味を持つものなのだろうか?

決して恵まれているとはいえない環境下にあって、それでも彼女が野球を続ける理由はどこにあるのだろうか?

ヒーさんの話はなおも続いている。それを私は感慨深く聞いていた。

※本記事は、2017年2月刊行の書籍『女子硬式野球物語 サクラ咲ク1』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。