「ところが、その作家はいざとなって、逃げ腰になって……」
「やっぱり情けないわね」

多佳はきんつばをまた一口頰張った。

「静子は男を励ましつつ、二人は滝に身を投げて……男だけが助かるの」
「バカみたい」

晴もカプリときんつばを食べる。

「そのことが作家の大きな心の傷になって……もういい、あなたたちに話したって面白くもないわ」
「ねえ、知ってる?」

晴がここぞとばかり得意の情報を披瀝し始めた。

「私の近所の乾物屋の熊さんも、おかみさんに逃げられたのよ。大酒飲みで、家に帰ればあばれるし、お店の切り回しもおかみさんにまかせきり、しまいには、小さな子どもにも手を上げる……」
「現実はなまなましいわね」
「でもさ、駆け落ちって、いいわよね。憧れちゃうな。許されない恋に落ちた二人が手に手を取って、雪の中」

晴は多佳の手を取って、ところどころベベベンと口三味線を自分で入れながら、浄瑠璃の道行の真似をはじめた。

「“この世の名残り、夜の名残り、死に行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜。一足ずつに消えてゆく。夢の夢こそあはれなれ……”あーあ、誰かいないかなー、そんな人」

喜久は二人の悪ふざけを無視して

「それで、その講演会だけど、明日の夜、お城のところの照月庵であるのよ」
「夜……行けないわよ。照月庵って大きなお座敷でしょ」

美津が言うと、

「大丈夫よ。木島先生のお話を聞けるなんて、めったにないわよ。千載一遇よ」
「だって、学生がそんな所に出入りするなんて……」
「本当にもう! こっちには強い味方がいるのよ。紅林先生。木島さんと知り合いなんだって。何でみんな、驚いてるの」
「さっき、話していた人」と晴。
「どういうこと?」と多佳が身を乗り出した。
「これは、臭うな。臭いますよ。ねえ、ねえ、木島さんって奥さんいるんでしょ」
「いると思うわよ。たしか『妻の癖』という文章が新聞に載っていたから」喜久が答えた。
「やっぱりそうよ。絶対……これは、姦通……ってことじゃないの」
「ちょっと待ってよ。冗談にしても、紅林先生に失礼じゃない」
「そうよ。……でも、木島先生の講演に行ってみたいな」と美津。
「私も。あんないい男、じっくり見てみる価値が充分あるわ」晴がうっとりして言う。
「ねえ、その人、そんなに素敵なの」喜久が悔しそうに尋ねる。
「そりゃ、もう。団十郎みたいで」
「団十郎見たことあるの?」
「うううん、ない!」