最後の三つ目は、私が高校1年生の時、早朝の新聞配達、授業前のグラウンド整備、昼食を5分で食べたあとのグラウンド整備、球拾いばかりの練習、練習後の上級生からの厳しい指導などに耐えることができず野球部を辞めようとこころに決め、3年生最後の夏の大会を応援していた時の話だった。

「チームは、昨年は1回戦負け、今年はなんと準々決勝まで駒を進め、9回裏1死、ランナー一塁で、3対2で負けていました。そしてここで3年生の山本先輩という人が代打で出てきました。

山本先輩はレギュラーではなかったため、高校時代一度も練習試合を含めて出場することはありませんでした。

しかし、一度も練習を休むことなく、真っ先にグラウンド整備をする姿に多くの1年生は、尊敬の念を抱いていました。ですから、山本先輩の代打に皆が拍手を送りました。

そして、山本先輩の生涯で、最初で最後の1回限りのスイングから放たれた打球は、なんとレフト方向に低く飛びながら、そのままポールを巻いてレフトスタンドに入り、サヨナラホームランとなり逆転でチームはベスト4になりました。私は歓喜し、皆と抱き合い泣いていました。

これを体験した私は、『よーし、真面目にこつこつやり、決してレギュラーにならなくてもいい、最後まで諦めなければ、このような奇跡があることを信じて、3年間耐えてみせるぞ』」

とこころに決めた時の話を香港の選手に優しく訴えていた。

この三つの話が終わると全体でのウォーミングアップが始まった。

2日目ということで、それぞれの緊張がほぐれたためか、日本も香港チームも前日よりも大きな声が飛び出すようになっていた。

それまで、日本チームは「イチ、ニー、サン、シー、ゴー」と発声していた掛け声をこの日は高校生たちの発案で「ヤッ、イィ、サム、セイ、ンー」と広東(かんとん)語で発音するようになった。

特に「5」を意味する「ンー」は誰もが覚えやすく、「5」の番が訪れるとグラウンド中に「ンー」の大合唱が起き、そのたびに大きな笑いに包まれた。

この流れを受けて、香港の選手たちが「日本語での数え方を教えて」と尋ねるようになったのは、もはや自然の流れだった。

このウォーミングアップでは、日本人選手が広東語で掛け声をいい、香港人選手が日本語で掛け声をするという不思議な光景が現出した。初めから意図されたものではない、自然な国際交流が2日目にして実現していた。

このウォーミングアップに限らず、この日はそれぞれの練習において前日よりも大きな前進が随所に見られた。

この日の練習前に、外野手の林が小さなノートを片手に何やら懸命にメモを取り続けている。その傍らには香港人の女性通訳が立っていた。

林が懸命にメモしていたのは、野球に関する広東語の数々だった。数字の数え方はもちろん、「前」「後ろ」「右」「左」といった打球方向の指示に関する言葉。前日の練習時に、的確な判断を伝えられなかった反省から、林は「まずは言葉からだ」という発想に至ったのだった。

同じく、平成国際大学の田上愛美もまた、前日の反省を踏まえてこの日の練習に臨んでいた。それは前日の「軍手真下投げ」のトレーニングの最中だった。田上は、今回の遠征のきっかけともなった香港のキティから質問を受けた。

「どうしたら、もっとちゃんと的の軍手に当たるようになりますか?」

その瞬間、田上は自信を持って答えることができなかった。冷静に考えれば、「フォームを安定させるために、前足にきちんと体重を乗せて、後ろ足をきちんと蹴り上げるべきだ」

と伝えなければいけないということはわかっていた。

けれども、いざ、教える段になって、

「はたして本当にそれでいいのかな?」

という疑念が頭をよぎった。

教える側に迷いがあれば、それは効果的な指導とはならない。そんな迷いを抱えたまま、曖昧な指導をしてしまった自分を田上は悔いていた。

そして、ホテルに戻って一夜を過ごしたことによって、

「自分に自信を持たなければ教えることなどできないのだ」

ということを理解した。

教職課程を履修し、将来は教員となって女子野球の監督やコーチを務めることが夢だという田上にとって、まさに、

「教える側こそ教えられる」

ということを体感したのだった。

だからこそ、この日は、

「自分がこれまでやってきたことに対して自信を持とう。そして、きちんと聞かれたことに対して答えよう」

と意気込んでいた。

教える側の日本人選手たちがそれぞれの意気込みを持って臨んでいたように、教えられる側の香港選手たちもまた、貪欲に野球に取り組もうという意志が強く表れていた。ちょっとでも不明な点があれば、大声で通訳を呼び、近くにいる日本人選手に向かって、

「この時の腕の角度はこれでいいんですか?」

「どうしても左側によろけてしまうんですけど、どうしたらこの癖は直りますか」

などと質問攻めにした。

※本記事は、2017年2月刊行の書籍『女子硬式野球物語 サクラ咲ク1』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。