寮の道を挟んだ真向かいに酒屋さんがありました。時々、上司(現場ではボーシンと呼ばれている現場責任者)と酒を飲みに寄ります。酒屋のおばさんは、「デモが続いて客が来ないので、商売あがったりよ」と嘆いていました。

上司は私の父親と同じくらいの年でした。私を我が子のように可愛がってくれて、大牟田市内や隣の荒尾の町まで出かけていき、二人で朝方まで飲んだこともありました。

発電所は三池港に隣接していて、昼休みや、作業が終わると港に出かけ、岸壁に係留している外国船に乗り込んでいました。このころの外国船は自由に乗船させてくれたので、ある時、停泊しているイギリスの貨物船に乗りました。

その時、イギリス人の船員が口笛を吹いていました。その曲が《港の灯》という曲で、私もなぜか知っている曲でした。外国船の船員が自分の好きな曲を口笛で吹いていることに、何とも言えない親しみを感じました。

今でもビリー・ヴォーン楽団のレコードをかけて《港の灯》を聴いています。そのころ船上で撮った写真を見ながら、当時のことを思い出すことがあります。

私は二十歳の成人の日を大牟田で迎えることになりました。成人式には故郷へ帰ることができませんでしたが、寮母さんが「成人おめでとう!」と、海苔で書いたお弁当を作ってくれました。

当時私の弁当箱はアルミ製で、蓋に自分でミッキーマウスの絵を彫刻刀で彫り込んでいました。

「仲宗根さんの弁当箱はミッキーを描いているからすぐわかるよ、若い人はお腹がすくやろうから大盛りで入れておくね」と、私にとってはお母さんやお姉さんのような存在の寮母さんたちでした。

※本記事は、2017年11月刊行の書籍『霧中の岐路でチャンスをつかめ』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。